2007年11月11日日曜日

スポーツニュースは恐い 刷り込まれる<日本人>(森田浩之 著)~馬鹿マスコミに洗脳されないための一冊になる?~

今日は最近読んだ本について書きたいと思う。

わざわざ紹介しておいて、こんな言い方も‘失礼’だが、
読んで‘目から鱗’という程の内容ではない。

私自身が同様の‘疑念’をスポーツ・マスコミに対して持ち、
その質の低さを‘嘲笑’している人間だからだ。

この本のサブタイトルにある‘刷り込まれる〈日本人〉’だが、何が刷り込まれるのか。

筆者は〈私たちは日本人である〉というナショナリズムの話に持って行きたがっているが、
その日本人像を含めたスポーツ報道のステレオタイプの問題の方が私には重要だ。

ステレオタイプについての記述の一部を抜粋してみた。

ところで、「ステレオタイプ」という言葉がもともとは印刷業界の用語だったことはご存じだろう。ステロ版(鉛版)印刷術を指す英語だったのだが、これをアメリカのジャーナリストで造語の才にたけていたウォルター・リップマンが、「判で押したように多くの人が共有する固定観念」を表わす言葉として鮮烈にデビューさせた。1992年の著書『世論』でのことである。
 この本のなかでリップマンは、なぜステレオタイプがはびこるのかを考えた。彼の答えはいたってシンプルで、「ステレオタイプで世の中を見たほうが楽だから」というものだった。
 ステレオタイプにのっかってしまえば、自分で世の中を観察して考えなくてもいい。ステレオタイプがあると、私たちは「観察してからの定義するのではなく、定義してから観察する」ようになると、リップマンは書いている。「私たちは、文化が定義済みのものを拾い上げるだけになる。文化がステレオタイプのかたちにしたものを拾い上げ、それを理解するだけになる」


私自身は‘陳腐’を嫌悪している。
私を含めて一部の人々がステレオタイプなものを批判すること自体がもはや一種の
ステレオタイプという‘自虐的な見方’もできるが、やはり大部分の人々はステレオタイプである。

それはマスコミやメディアによって‘洗脳’された結果とも言えるが、
上の引用にあるように‘楽だから’という無意識の行動パターンにも支配されていそうな気がする。

テレビの街頭インタビューを聞いているだけで私はその陳腐さに呆れてしまう。
実際はもっと個性的な意見を言っている人もいるのだろうが、それらはステレオタイプな
マスコミによって‘検閲’され不採用になってしまっているのだろう。

ブログの世界も然りだ。
なんとも陳腐にしてステレオタイプなものが氾濫している。

このブログも別に上等なものではないが、それでもMLBに関してはできるだけ‘現地主義’に
徹して、日本人的な‘偏向’を排除しステレオタイプに陥らないように努めている積りだ。

この本のタイトルを書店で見て、或いは書評で見て、ついでに735円と言う値段も見て、
中身を確認することもなく購入を決断できるタイプの人間は実はこの本を読む必要のない
人種なのかもしれない。

恐らく最も読むべき人種はスポーツ・マスコミに関わっている連中である。

筆者が例に挙げている幾つもの馬鹿げた報道の仕方(これが結構面白い)が
すべて‘禁じ手’になったら、連中は相当狼狽するに違いない。

或いは‘禁じ手’であることは十分承知した上で‘楽だから’という理由で、
営々と‘刷り込み作業’を続けるつもりなのだろうか。

新書で約200ページ、恥ずかしいくらい‘遅読’の私でもさくさくと読めた。

‘スポーツニュースは恐い’というタイトルを読むと一般ニュースは恐くないのか?と
突っ込みを入れたくなるが一般ニュースの恐さは論をまたない。

‘スポーツニュース(も)恐い’というのが本音だ。

最近大きく報じられた所謂‘亀田家騒動’だが、そもそもボクシングというスポーツに
まったく興味の無い私としては論ずる気もないし、論点すらよくわからない。

ただし、嬉々として社会問題に‘昇格’させていたマスコミに対しては激しい嫌悪の念を抱いた。

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