2005年3月31日木曜日

さだまさしの案山子~雪原に立っていたのは~

ナリポンは隠れ‘さだファン’である。
何故隠れなきゃいけないのかは微妙な世界だが・・・(^。^)

私の友人の一人息子が大学進学で親元を離れる。

CMで
「これから一人暮らし」
「お父さん、泣いてた・・」
「寂しいもんね」
「 違う、お金かかるから!」
というのがあるが、この前一緒に飲んだ時、彼ははっきりと『寂しい』と言っていた。
余りに素直な物言いにやや驚いたが、その時思い出したのが、さだまさしの案山子という曲だ。


案山子


 元気でいるか 街には慣れたか
  友達できたか
  寂しかないか お金はあるか
  今度いつ帰る

城跡から見下ろせば 蒼く細い河
橋のたもとに 造り酒屋のレンガ煙突
この街を綿菓子に 染め抜いた雪が
消えればお前が ここから出て
初めての春

  手紙が無理なら 電話でもいい
  金頼むの 一言でもいい
  お前の笑顔を 待ちわびる
  お袋に聴かせてやってくれ

  元気でいるか 街には慣れたか
  友達できたか
  寂しかないか お金はあるか
  今度いつ帰る

山の麓煙はいて 列車が走る
木枯しが雑木林を 転げ落ちてくる
銀色の毛布つけた 田圃にぽつり
置き去られて 雪をかぶった
案山子がひとり

お前も都会の 雪景色の中で
ちょうどあの案山子の様に
寂しい思い してはいないか
体をこわしてはいないか

  手紙が無理なら 電話でもいい
  金頼むの 一言でもいい
  お前の笑顔を 待ちわびる
  お袋に聴かせてやってくれ

  元気でいるか 街には慣れたか
  友達できたか
  寂しかないか お金はあるか
  今度いつ帰る
  寂しかないか お金はあるか
  今度いつ帰る




歌詞だけ読んでもいまいち実感がないが、メロディーにのせると中々泣ける曲だ。
ところが、私はこの曲に関してさっきまで大いに誤解していた。
この曲は、父親の立場で歌っているのかなと思ったが、実際はさだまさしが台湾大学に留学した
実の弟をモデルに書いた歌詞だったそうだ。

そうだとすると親子愛というよりは、兄弟愛の世界になるが・・・(^。^)

大学時代、私はこんなシーンに出くわした事がある。
それが、冬休みだったのが春休みだったのかはっきりしないが、
帰省して再び東京に戻る列車の中での出来事である。

途中駅で乗ってきた、青年(私よりはちょっと年上に見えた)が、
窓際に座っていた私のところにやってきた。
彼の席は私と同じ列のD席、私がA席。
「すみません」の一言も無く、私の体を押し付けるようにして窓の外を見ている男を
正直鬱陶しい奴だなと思った。

そもそも彼が何のためにそんな事をするのか理解できなかった。

すると、彼は、突然窓の外に向かって一生懸命手を振り始めた。
窓の外は、田んぼが深い雪に覆われた銀色の雪原だ。
その雪原の中に、ひとりゆっくりと手を振っている女性の姿があった。
きっと彼の母親に違いない。背後に1軒の家があった。
息子はあらんかぎりの速さで手を振るが、母親は距離が離れているせいか、
まるでスローモーションの映像を見るように、ゆっくりとゆっくりと手を振っている。
広い広い雪原の中にぽつんと立ち、ゆっくりと大きく手を振っている。

当時の遅い在来特急でも、彼等に十分な時間は与えなかった。
母の姿が完全に見えなくなるのを確認した彼は、相変わらず無言だがぺこりと頭を下げて
自分の席に戻った。

彼がさっきの駅から乗車してから10分も経っていなかった。

小一時間前に、家で十分に別れを惜しんだ筈なのに、
この親子には惜しむべき愛がまだまだあったのだろう。

私は、気をきかせて席を譲ってやれなかった自分をちょっと後悔し、
同時に数時間前に別れた母の事を思い出したのだった。

2005年3月29日火曜日

ナリポンとつけめん~あの名店がトラウマに~

私が初めてつけめんを食べたのは1985年の1月。
シンガポール赴任時代に2週間のホームリーブ(一時帰国)の時である。
店は、ご存知の行列店、東池袋の大勝軒。
平日の昼過ぎなら、少しは空いているだろうと思って1時半過ぎに列に並んだが
結局食べられたのは、3時近くだったように記憶する。

ここでは、つけめんとは呼ばずに‘もりそば’と言うが、それを注文。
店内は極めて雑然としており、正直、衛生的とも言えない印象。
さあ、件のもりそばが運ばれてきた。

白っぽい太い麺は、水切りがしっかりされてなく麺そのものも柔らかい。
つけ汁は、酸っぱいのと砂糖の甘さが分離した感じでそれまで味わったことのないもの。
チャーシューは、マナガツオのソテーのように分厚いが、パサパサしており肉かどうかも判らない。

要するに、一言で言えば、全然美味しくない。
いや、美味しくないどころか、量的にも多くて食べているのが苦痛以外のナニモノでもない。
じゃあ、残して帰ればいいじゃないか、とも思うが、そこはA型。
店の人や、周りの客たちの目が気になるのだ。
必死の思いでほぼやっつけて店を出た。

これが完全にトラウマになって、つけめんに対する思いは無くなった。
そもそも、冷たい麺に、熱いつけ汁とういう組み合わせが、日本蕎麦の鴨せいろ以外は
無理なんだと納得していた。

それから、10数年つけめんは一度も食べなかった。
で、ある時、兄と話していたら、「美味いラーメン屋があるぞ」と言い出した。
「ラーメンもつけめんもどっちも美味い」と言う。
「いやぁ、つけめんなんてもう一回で懲りたよ、大勝軒で・・・」
すると、彼も大勝軒は全然合わなかったが、ここは違うと言い始めた。
店の名前は、『麺屋ごとう』、なんとあの大勝軒出身の兄弟が開業した店だそうだ。

初めて、ごとうに行った時は、弱気にラーメン(中盛り)にしたが、スープ、麺とも大当り。
チャーシューだけが、本家に近いパサパサ系だったが、総合点ではかなりの高得点。
で、程なく再訪した時に、終につけめん(特製もりそば)を注文。
うま~い、麺そのものの美味さを味わえる。
ということで、10数年に及ぶ、つけめんトラウマから解放された。

師匠の店でトラウマになって弟子の店で解放されるのもなんとも面白い話だが・・・(^。^)

その後はつけめんマニアになり各店を食べ歩く。
で辿り着いたツートップが、べんてん(高田馬場)と丸長(桜台)だ。
他には道頓堀(成増)も好きだが、実は一番多く通ったのは野方にあるGという店。
やはり東池袋大勝軒出身。個人的にはラーメンもつけめんも大好きだし値段も安いのだが
行列店ではない。

穢土を離れる時に、困ったのは当地にはつけめん文化が無いという事。
実際つけめんを出す店もあるのだが、麺が弱いし、つけ汁も薄く、ざるラーメンといった感じで、
東京の美味いつけめんに慣れた舌を満足させるものではない。

Gの店主に地方発送の可能性を打診するも、丁重に断られた。
その次食べに行った時もお願いするが、やっぱり駄目。

う~む、家族全員つけめんの無い生活は嫌だと言う。

そこで、ナリポンは行動する。
Gのある地域の宅急便の営業所を調べた。
着払いの伝票を10枚用意して、必要事項を全て記入した。
エクセルで管理表を作った。
その上で、もう一度Gに赴き、
前金で取り敢えず、2万円預けます。
この表で管理してください。
ここに電話すれば宅急便が取りに来てくれます、この着払いの伝票を渡せばそれでお終いです。

あそこまでやられたら、流石に先方も根負けして承諾してくれた。

今日の昼は、その取り寄せた、Gのつけめん、うま~~~い。
冬の間は頼んでなかったので、まさに春を告げるつけめんだ。
Gの店主もこれほど喜ばれてるとは想像もしていないだろうな。

北国のゴルファーがこの時期、今年初のコースに出て春を感じるように、
我が家はGのつけめんで春を味わう。

2005年3月26日土曜日

不機嫌に『Wake Up!』

もう、昨夜のサッカーがアレだったから朝から苛立ち気味。
ナリポンの悪い癖で、ああいうことがあると‘好戦的’になる。
自分の責任で何かを失敗したりしても、そうはならないのだが・・・。

その昔、熱烈なジャイアンツファンの頃は凄まじかった。
金曜の夜から週末にかけて3連敗でもしたら、月曜日はもう大変。
会社の連中も戦々恐々だった。
ベイスターズファンだったアシスタントの女性ディーラーは正に直下型の被害に遭う。
ジャイアンツのGをとってGハラスメントと言っていた程だ。

まあ穢土を離れ厭離庵に篭ってからは、あたる相手も居なくなり(妻は慣れっこ)
おさまっていたのだが・・・(^。^)

今朝はその不機嫌な中、更に不機嫌にさせるあいつらがテレビに登場。
よみうりテレビの『Wake Up!』、全国ネットの番組だ。
土曜のこの時間は他に見たい番組もないし、その週のニュースをダイジェストとして見せてくれるから、
テレビをつけている時は、この番組を見る。

中央に落語家の桂文珍と元ピンポンパンのお姉さんだった酒井ゆきえ、
左側にその時々のゲスト・コメンテイターが陣取る。

問題は右側のふたりだ。

ひとりは、岩田公雄氏(よみうりテレビ解説委員)
文珍に「その辺は、どうなんでしょかね、岩田さん」と振られコメントするが、それが最悪。
内容は新聞やネットニュースを読んでいれば何処にでも書いてあるような陳腐なものばかりで、
斬新さはゼロといって良い。
独自の解釈の披露もなく、自分の実体験を通してのコメントも少ない。
何かウイットに富んだユーモアのセンスもない。
質問を浴びせている、文珍や酒井さんの方が余程センスのあるコメントをしている印象だ。

その横にいるのが明河尚美というリポーター。
いつも単純な内容なのに、目を原稿にやりながら読む。
それでも、噛みまくり。
何週やっても同じ。
新人アナかと思いきや、さっき検索したらアナではなくタレントらしい。
別のタレントはあるのかも知れないが、レポーターには全く不適格。

ところで、この番組15年続いたが、来週から生まれ変わるそうだ。
文珍も酒井さんも降板する。
『ウェークアップ!ぷらす』と言って、スームインでお馴染みの辛坊治郎氏(48)が担当する。

彼も、よみうりテレビ解説委員だが岩田氏の続投はあるのだろうか。
サイトを見ると明河尚美さんはいなくなりそうだ。


以上、今日は毒がいっぱいのナリポンでした・・・(>_<)

2005年3月24日木曜日

気狂いピエロ PIERROT LE FOU

昨日の昼のテレ朝の番組中、川村 晃司 (テレビ朝日コメンテーター)が
ゴダールの『きちがいピエロ』を観て泣いた、と発言した。

数分後、司会者は不適切な表現があったことを詫びた。
川村氏は、作品等の固有の場合は許されている、と主張していた。

私個人は、そもそも行き過ぎた言葉狩りには疑問を感じている。
アニメの巨人の星や映画の寅さんシリーズでも音が飛ぶことがあるが、あれはかなり白ける。

まあ、本題は差別用語ではない。
ゴダールの『きちがいピエロ』と言う映画そのものだ。

映研に所属していた映画青年としては、当然作品名は知っていたし、観るべき課題作品のような
存在だとは知っていたが、いまだ観た事はなかった。

ということで、『気狂いピエロ』(へー、これで‘きちがい’と読むんだ)を早速観た。

が、正直私の心は揺れもせず、踊りもせず、笑うことも無く涙も出なかった。

う~む、どうしたものか・・・(-_-;)

フランス語は全く分からないから字幕の日本語に依存するが、詩的であり文学的である風ではあるが、
それ以上に白々しく空疎な印象が強い。
この作品はヌーヴェル・ヴァーグの代表的な作品であり、映画史における価値は様々な人が口を
そろえて絶賛している。

でもナリポンには無理。

やや遅れてやってくる、アメリカン・ニューシネマは理解できる。
『俺たちに明日はない』『卒業』『イージーライダー』『真夜中のカウボーイ』『明日に向って撃て!』等、
すべて当時の上映時に観たが、一定の感動は得られた。

もし、あの柔軟な10代にこの作品を観ていたらどうだっただろうか。
素直に感動したかも知れないし、映画青年を‘偽装’するために感動を自己に強要していたかもしれない。

でも、今は違う。
感動できなかったことに素直になれる自分が居る。

プロフィールにもあるように、私はスキーが大好きだった。
どのスキー場にもひとつは存在する、圧雪のしてないコブコブの急斜面を滑り降りることが
夢だった。
しかし、生半可な練習では到底不可能な夢で実現できなかった。

で、ある時から、その夢を棄て、そういった斜面へのチャレンジを諦め、
自分が心地よく滑降できるゲレンデのみ滑る事にした。
それにより、更にスキーが楽しくなった。

映画観賞も同じだ。
自分の力量に応じた素直な観賞をしている。

ところで、「私は映画キチガイです。」というのも、きっと差別用語なんだよね(笑)
なんか『勝手にしやがれ』って言う感じ・・・(^。^)

2005年3月23日水曜日

世界最強のアジの開き~The Montcalmの和朝食~

今までの最強シリーズは、生餃子とレバニラ。
今回の最強話は、舞台が世界だからかなり乱暴だ。

世界最強というくらいだから、残念ながら日本で食することはできない。
所はロンドンだ。
私が現役時代、定宿にしていたJAL系のホテル The Montcalm で供される朝和定食。
鮭かアジ開きがチョイスできる。
そもそも個人的には鮭のほうがアジの開きより好きだし、初めて頼んだ鮭が十分に美味だったので、
最初の年は4回の朝食は、鮭・洋・鮭とし最後の日にアジを頼んだ。

このアジが、身が厚く、脂もノリノリで大当たり。
日本でもそれなりに美味いとされているアジ開きを食べた事はあるが、
あんなアジに出会ったことはなかった。

野球とベースボールの違いと言うか・・・。
恐らく、日本の干物名人から見ればどこか亜流なのかも知れないが衝撃的に美味かった。

以前、銀座の哥利歐(ごりお)という店で初めてスモークサーモンを食べた時と同じような衝撃だ。

最終日に気付いたことをやや悔いたが、ロンドンなら将来的にまた来る事があるだろうと・・・。
チェックアウトの時に、訊ねたらアジはローカルの物だと言っていた。

その後、3回利用する機会があったが2~3泊。
3泊の時は、アジ・鮭(洋)・アジのローテションで迷いが無いが2泊の時は悩んだ。
結局、アジ・アジの連投にしたが・・・。

但し、値段は安くない。
私が利用していた頃より更に値上がりしていて、£19..95≒¥4,000
鱈の味噌漬けが新たに加わっている。
それにしても、サイトで自信たっぷりにロンドン・イチを謳っている。


"ロンドンで1番おいしい和朝食"

クレッセントレストランでご提供している和朝食は大変おいしいとご好評をいただいております。 

和朝食の中身は、サーモンの塩焼き・アジの開き・タラの味噌付から1種お選びいただき、ご飯、豆腐の味噌汁、味付け海苔、デザートのメロン、緑茶とともにご提供いたします。

和朝食のお値段はお一人様19.95ポンド(税込み)、ウィークデイは朝7時~10時まで、土曜日曜は朝7:30~10:30までご提供いたしております。


因みに、このホテルのもうひとつのお気に入りは、バスロブ。
思わず、トランクの中に打ち込みたくなったが、折角築いてきたパーソナル・ヒストリーを
汚してはいけないと、思いとどまった。

2005年3月21日月曜日

地震ヴァージン

昨日、九州北部でマグニチュード7、最大震度6弱の地震があった。
このエリアは謂わば、地震大国日本にあって、地震空白地帯であったとのこと。
歴史的に遡っても、300年前に記録があるだけだ。
被害者には気の毒だが、それでも地震の規模の割には被害が少なかったというのが実感だ。
生まれて初めての大きな地震を体験しパニックに陥った人達も多かったかも知れないが、
日本人であれば、他の地域での過去の地震報道等を通じて地震そのものに対する知識はあったと思う。
当局の対応も日頃の訓練のお陰か円滑だったように感じた。

日本人であれば、程度の差こそあれ何らかの形で地震経験があるだろう。
乱暴な言い方だが、日本人にとって地震は‘既知のリスク’なのである。

ところが、世界中には地震と全く縁の無い人々もいる。

本店から派遣されていた、あるスイス人ディーラーがいた。
一応、組織的には私の部下であったが、スイスフランに関しては自分の方が知っているという
自負のせいか、余り言うことをきかないタイプだった。
が、或る日、仕事中に地震が起きた。
震度にすれば3か4でたいしたことは無かったが、彼の顔面は文字通り蒼白。
普段の勢いを完全に失い、
「気分が優れないので早退したい」と申し出てきた。

知り合いのシンガポール人2人も宿泊していた帝国ホテルのツインルームで早朝地震に遭い、
気色悪く男二人で床で抱き合ってしまったらしい。
その後、眠ろうとしても眠れなかっと嘆いていた。

彼らにとっては、地震は‘未知のリスク’であり、その分恐怖が何倍にも増幅される。
特に、あの揺れがいつ終るのか分からず、いつまでも続くものだと思ってしまうらしい。

シンガポールの高層ビルは地震が無い事を前提に建築されている。
それでも、最近の建物はそれなりの強度があるだろう。
見ていて怖いのはHDBという政府が供給し、大多数の国民が住んでいる公団住宅だ。
1階部分を駐車場スペースにあてるために、建物の2階以降はタカアシガニのようなか細い柱に
支えられているだけだ。

我々日本人の感覚では見ているだけで恐ろしい。

2005年3月20日日曜日

地下鉄サリン事件~その時ナリポン兄弟は・・・~

10年前の今日、1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起こった。
その時、我々夫婦は友人夫婦と2度目のアスペンでのスキーを楽しんでいた。
直前の週末に日本を離れていたのだ。
現地のテレビニュースでも大々的に報道されていた。
英語は大体理解できたが、事態そのものが自分の想像力を超越した部分があった。
社長職にある友人が、会社から新聞記事を毎日FAXで送らせるように指示。
事件の恐ろしさを実感していった。

もし休暇中ではなく、通常通り出勤していたら・・・
私は地下鉄有楽町線の永田町で降り、議員会館のところの出口から地上に出て、
首相官邸の前を通り、溜池交差点の脇を通り、目標のビルへと到着する。
現場には近いし時間的にも被っているが直接被害に遭う可能性は無かったといえる。

ところが、私には一人兄が居るが、その兄は当時、所謂霞ヶ関の役人で、
丸の内線の霞ヶ関駅を利用していた。
もしかしてと思ったが、新聞記事を読む限り該当が無かったのでわざわざ確認はしなかった。

帰国後分かったことだが、兄もその日から東南アジアに出張のため出勤していなかったそうである。

田舎の母は、すべての事実を知らされてこう呟いたそうだ。
「海外さ行くときは気をつけれと言うけど、今回は2人とも海外に居て安全だったのか・・・、
わがらね世の中になったなぁ」

2005年3月19日土曜日

ムショから出たら何を喰う~高倉健の場合~

「幸福の黄色いハンカチ」
山田洋次監督、高倉健主演の映画。
勿論、陳腐ながらも素直にラストシーンは感動できるが、
私がこの映画を何度観てもいつも心から感動できるのは実はオープニング直後のところ、
網走刑務所を出所した健さんが駅前の食堂に入るシーンだ。

入るといきなり「ビールください」と言い、席について壁に貼られた品書きに目を輝かせ、
「醤油ラーメンとカツ丼」と注文する。
ビールのコップを両手で拝むように掴み、運ばれてきたお盆にはラーメンとカツ丼。
‘娑婆の風’が何よりの特選素材だ。

あのシーンを観ていると、マジにムショ暮らしをしてあの感激を味わいたいと思ったりした・・・(>_<)

健さんの映画でいえば他にも同様なシーンがある。
「冬の華」でも出所した翌朝、真っ白なマンションの一室でバターを塗りジャムをたっぷりのせた
トーストを臭いを嗅ぎながら食べるのである。
クロード・チアリの哀切極まるギターの音色が背景に流れている。

良い設定だが、ビール、ラーメン、カツ丼の黄金トリオには敵わない。

幸か不幸か、私はムショ暮らしの経験は無い。
日本の銀行に入った直後、20日間位の新人研修合宿があったが、まあそこそこの餌は
与えられた。

心臓で入院した最長は9日間。
9日間は短いが、危険な状態から娑婆に復帰したという意味では長い時間とも言える。

午前中退院し、昼飯を何にするか、悩んだ。
私は馴染みのラーメン屋を考えていたが、カミサンが家の近所に新しくできたラーメン屋に
凄い行列ができていると囁く。
じゃあ、通り道だから一応そのラーメン屋を見た上で、という事になった。
11時半というのに確かに行列が出来ていた。
‘N本’という店だ。
で、その行列を一旦見たら自然に並びたくなるのが人情だ。

退院したばかりの身体で30分近く並び、そこの一番人気のMタンメンを注文した。
が、全然私の好みじゃなかった。
辛さが売りらしいが、とろみの油が上質とは言えない。

入院開けの胃袋には刺激が強すぎたのか下痢をする破目に・・・。

長いムショ暮らしの後だと、何でも美味く感じるってのは昔の話かも・・・。
やはり、素直に美味い店に行って喰うべきかもよ。

2005年3月18日金曜日

誰でもたこ焼き名人

子供の頃、我々の世代で東の人間にとって、たこ焼きといえば余り美味いという印象はなかった。
お祭りや花見の時にテキ屋の兄ちゃんが作るたこ焼きは上質とは言えない粉を使い
口の中でネチャネチャ。
だったら、ソース焼きそばの方が断然だった。
それでも、クルクルとひっくり返されるたこ焼きは、見る分には楽しかった。

40代半ばになって、終にそのクルクルに挑戦する機会がやってきた。
従妹の結婚式が大阪であり、泊りがけで出かけた時だ。
マルビルにあるホテルに宿泊していたが、その地下に、たこ焼処 蛸之徹(タコノテツ)と言う店があり、
親戚一同がそこで昼をとるよう叔父がアレンジしていた。
夕方の結婚披露宴の食事はオープンしたばかりのザ・リッツカールトン大阪だったので、
いたずらにお腹を膨らませる事には抵抗があった。
が、その店は客が自分で焼く店として評判があると聞き参加した。

3卓を占領したはいいが、誰も経験者はいなかった。
色々なヴァリエーションがあるメニューの中から適当に注文、いよいよ勝負。
みんな悪戦苦闘した。
途中で諦めて、生ビールに集中する輩もいた。
時々、誰かが偶然に引っくり返しに成功して歓声をあげるが、所詮偶然だから次は矢張り
失敗する。

箸を使えない外人が日本食を出されて苦労しているのとは訳が違う。
彼らは、ナイフやフォークを借りて完成された料理を食べればいい。
我々がその時直面していた片方しか焼けてないたこ焼きは、食べ物として未完成品なのだ。

しかし、そこは勝手知ったるナントカで・・・颯爽と店員様が登場。
できそこないの無様なたこ焼きを実に巧みに素早く引っくり返した。

私のテーブルが片付くと、隣の卓の叔母もその店員様にまさに懇願の眼差し(笑)
結局、3卓とも店員様がすんでのところでたこ焼きに仕上げてくれた。

たこ焼きは、自分達の最初の不手際のせいか、余り美味しくはなかった。
頭の中では、クルクル回せると思っていたのが出来なかったことで挫折感にも似た感情が
美味しく感じさせなかったのかも知れない。

あれから、ほぼ4年・・・
実は我が家の二十歳になんなんとするホットプレートが終に壊れて、新しい物を購入。
それには、直径43mmの大きなたこ焼きが30個焼けるプレートも付いていた。

届いたその夜は、当然焼肉とたこ焼き。
家族でたこ焼きを焼いた(苦い)経験があるのは私だけ。
その時の経験を話しながら、粉を流し込んだ。
3人で竹串を持ち、自分の‘陣地’を決め、いよいよクルリの作業。

ありゃりゃ、なんじゃこりゃ、簡単に廻るじゃん!

表面が加工されているので、全然くっつかない。
面白い位、クルクル自在に廻せる。
私の苦労話が嘘みたいだ。

その後、何度かたこ焼きをやった。
勿論、クルクル・・・

しかし、誰でも出来るとなると簡単すぎて感激が薄れていく。

誰でも名人になれるんだったら、名人とは呼ばないよな。

買ったのは象印ホットプレート やきやき三昧 EA-CS65

2005年3月17日木曜日

フレンチ・パラドックスの盲点~赤ワインの効果は‘限定的’?~

私が心筋梗塞に襲われたあと、その原因について友人達と話していた時である。

「おまえ、赤ワインとか飲んでたよな。あれって心臓病を防ぐんじゃなかったっけ。」
「まあ、あれはフレンチ・パラドックスと言って、科学的根拠は無いんじゃない。」

このフレンチ・パラドックスってなんだ、という人は先ずこれをどうぞ。


昨今の赤ワインブームに火をつけたきっかけは、“フレンチ・パラドックス”のなぞ解きにあったことは有名な話。なぞ解きをしたのは、1992年にランセットという一流学術誌に掲載された論文だ。
 バターや卵、肉料理などをたくさん取るフランス人は、先進諸国の中でも脂肪の消費量が多いが、それにもかかわらず冠動脈疾患の死亡率は他国に比べてむしろ低い。これがいわゆる“フレンチ・パラドックス”だが、論文ではこの背景として「フランスでは赤ワインの消費量がずば抜けて高い」ことを指摘。これにより赤ワインは世界中の注目を集めることになったのだ。
 その後、フランス東部で中年男性3万4000人を15年間追跡し、アルコールの摂取状況と死亡率の関係を調べた疫学調査では、一日2~5杯程度のワインを飲む人で、心臓病による死亡率が最も低いことが分かった(ファクトシート参照)。一日1~3杯程度のワインを飲む人では、何とがんによる死亡率も低下した。

nikkeibp.jp健康


引き続きフレンチ・パラドックスの話を続けている友人達の中で、
私はとんでもない事実に気付いた。

あっ!俺が飲んでた赤ワインはチリかカリフォルニアだ!
フレンチぢゃないぃぃ!!


赤ワイン、赤ワインと騒ぐが効果は‘限定的’なのかもしれない。

勿論、外の横メシ屋に行った時は、フレンチ、イタリアン、スパニッシュ等と料理の国籍のワインを
飲んでいたが、家で飲む文字通りのハウスワインは、当時だと専らこれら↓の千円ワインだった。

"コンチャ・イ・トロサンライズ カベルネ・ソーヴィニヨン"

"ロバートモンダビ・ウッドブリッジ・カベルネソービニヨン“

その時は、私の大発見を半ばナリポン特有の一流の冗談としてみんなで笑っていた。
が、さっき検索してみたらこんなのを発見した。


フレンチ・パラドックスは、赤ワインの効果だけではなく、オリーブオイルや野菜の豊富な地中海式料理にあると考えられる。
また、2003年に、ドイツから報告された研究では、フランスの赤ワインが、「NO」という血管を拡張させる分子を、血管内皮細胞から放出させることが示された。これも、赤ワインが血管を詰まりにくくするメカニズムの1つだ。


長生きしたかったら、無理してでもフランス産赤ワインに拘るべきかもよ(笑)

2005年3月16日水曜日

可・不可(カフカ)の返信(へんしん)

~ある朝、ナリポンがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で
一匹の巨大な虫に変わっていて、卒業式に行けなくなっていた~

大学4年、卒業を前にして内定していた都銀の担当者から電話があった。
‘どう、元気にしてるかい。ところで、卒業の方は大丈夫だろうな’
‘はい、大丈夫だと思います’と答えた。

しかし、ここから超A型の血が騒ぎ始める。
成績の良し悪しは兎も角、3年までで単位は相当確保していた。
4年の前期を終えた時点では、単位数だけで言えば必要以上に修得していた。
但し、専攻の2コマだけは後期にしか修得できないものだった。
そして、そのうち一つでも落とせば、卒業はできないという状況にあった。

試験を終えた印象としては、‘まあ、間違っても不可ということはないだろう’だったのが、
人事部からの電話で突然不安になった。

「3月○日に卒業認定者を発表します」というのが教務課からの掲示。

その日まで、どれくらいあったのだろうか、10日か1週間か・・・。
電話で直接教授に聞いても教えてくれないよ、という話を聞いた。
思案した結果私が取った行動はこうだ。

往復はがきを購入。
往信には自分の心境を書き、可能ならば試験の結果を教えて下さいとお願いした。
返信用はブランクのまま送ることに何故か躊躇し、思いついたのが、
結婚式や同窓会で見たことのあるあのスタイルだ。
そうした方が、相手も楽に違いないと・・・。

・ 「可」以上
・ 「不可」・・・レポート等での救済策有り
・ 「不可」・・・レポート等での救済策無し

「可」以上か「不可」の選択の他に、救済策の有無も‘盛り込んだ’自分のアイディアを
自画自賛していた。
これによって、万が一「不可」の時でも、救済される可能性があるかないかを知る事ができる。

はがきを投函して、3日後にはK教授から、4日後にはS教授から返事が届いた。
K教授は「可」以上の部分全体を囲み、丁寧に他の2行を抹消していた。
まさに、出欠の連絡の時と同じ流儀だ。

S教授の方は、「可」以上一目瞭然だった。

こうして私は、運命の正式発表の日の数日前に、自分の‘卒業’を確認した。
仲の良い友人達にも顛末を話したが‘面白い’と喜ぶ者、‘よくやるよ’と呆れる者、様々だった。

実は話はこれで終らない。

卒業して、数ヶ月した頃、大学の研究室に残った友人からある‘事実’を知らされた。
S教授が新入学した学生相手に、最初の授業の冒頭私の往復はがき事件を話したそうだ。
その口調は怒りに満ちており、
「諸君が4年後卒業する時点で、あのような程度の低い学生にはならないように・・・」
と私を完全なる悪例として、釘を刺したそうだ。

極めて深刻な面持ちで話す友人を相手に、私もさすがに少しは動揺したが、
それでもその場は‘sense of humorの違いだね’と強弁した。

その後私も社会人になり、年齢も重ねてきた。
今になって、あの時私のしたことを振り返ってみると、S教授の怒りをやや理解できる自分も居る。

一方で、未だにその事件をネタにしている(カフカの変身⇒可・不可の返信)
自分も居る訳でやはり感覚が違うのかもしれない。

2005年3月15日火曜日

かっぱとなりぽん

上京して貧乏学生をしていた頃、たった一軒だけ行きつけの店があった。
東長崎にあった「かっぱ」という店だ。
ビールの大瓶が酒屋の値段プラス50円位でつまみもメチャ安だった。
その店では‘顔’だったので、友人もよく連れて行ったし今妻になった彼女(他多数?)を
連れて行ったものだ。
年にもよるが、年間100日から150日は通ったかもしれない。

一人で行ってもカウンターに常連のサラリーマンがいて、会話にも困らなかったし
時には奢ってもらったりもした。

あの貧乏感が逆に青春時代をより色濃くしている感じだった。

東京を離れる際にも、一度寄ってみたかったがなにしろ体調の問題もあったので
結局果たせずに終った。

その後暫くして、街にかんする掲示板でその店の経営者が亡くなったことを知った。
もう30年も経つのだからありうる話だが、ずうっと貧乏人の味方としての飲み屋を
貫き通したらしい。

その訃報を妻に伝えた翌日、夕食にはそこの人気メニューだった鯨肉のにんにく炒めがあった。

今夜は久々に夜の飲み会があった。
あの「かっぱ」で飲んでいたメンバーが、「なだ万」出身の若き料理人が腕を振るう割烹で会った。

30年の時の流れを感じた。

2005年3月14日月曜日

ホワイトディと柚子胡椒

なりぽんは陳腐とか平凡を嫌うところがある。
だからホワイトディに定番のスゥイーツ系を贈るのはどうも気に入らなかった。
かすかになんらかの可能性だとか、思いを感じる相手には真剣に考えて贈った時代もあったが、
大半は、所謂義理チョコだ。

そこで一時期、使わせてもらったのが柚子胡椒。
甘いもので一杯の口の中に一撃を加えようという魂胆だった。

東の人間には馴染みの薄い柚子胡椒。
私が初めて柚子胡椒を口にしたのは、15年くらい前だ。
麻布十番にあった飲み屋で、砂肝焼きと一緒に皿に出てきた。
その後も、この店に行くと必ず注文したが、その合性の良さに虜になった。
デパ地下や高級スーパーを物色。
或るスーパーで遂に発見。
それ以来、すっかり我が家の‘常備薬味’となった。

ところで柚子胡椒ってのは何かというと、柚子の皮と青唐辛子をすり合わせた九州独特の薬味だ。
なぜ唐辛子なのに胡椒と呼ぶのかというと、九州では唐辛子のことを胡椒と呼ぶとの説明。

‘じゃあ、胡椒のことはなんて呼ぶんじゃ’と突っ込みたくなる。

胡椒と唐辛子が置いてあるとこで、‘そこのコショー取ってくれ’と言ったら、どうするのだろう。
まあ、いいや。

この柚子胡椒、地元九州ではなんにでも打ち込むらしい。
うどんだけではなくラーメンやパスタにも・・・。
えっ、山葵がわりに刺身にもかよ・・・(>_<)
ステーキには合うかもね。
餃子、おでん、味噌汁・・・・

私は無難に、砂肝やその他焼き鳥、鍋物の豆腐すべて、水炊き、鴨鍋ってとこかな。

青いのが一般的だが、赤い唐辛子をつかったのもあるとのこと。

当地にやってきた頃は、どこにも売ってなく、東京の友人を通して調達していた。
が、最近は幾つかのスーパーで売り始めた。
いよいよ全国区になりつつあるのだろう。

2005年3月13日日曜日

続・曖昧な冬

続・曖昧な冬


二日前に私に曖昧だと誹りを受けた冬は
再び最後のちからを振り絞って
一面を白い世界に戻した
ゲルトルート

穢く黒ずんだ日陰の雪の塊を
白くコーティングした
ゲルトルート

素直に春にはさせてくれない
ゲルトルート

まるで
自我に目覚める過程の
13歳のわが子のやうに
掴み辛い
ゲルトルート

2005年3月12日土曜日

鬼束ちひろ

映画は新しいものも積極的に観るが、音楽は基本的には昔愛したものを繰り返し聴く。
それが私のスタイルだが、年甲斐もなく‘嵌って’しまった歌手がいる。
鬼束ちひろだ。

通常音楽は音だけ聴く(当たり前か)が、彼女に関しては偶然CATVの音楽チャンネルで
聴いたのが最初だった。
まるで、劇団の新人がやる発声練習のように大きな口をあけ、はっきりと発声している姿が
妙に気に入った。

初めて聴いた曲は「月光」、その歌詞に惹かれて、更に他の曲を聴いたが裏切らなかった。

JRウェストのCMで(いい日旅立ち)のカバーを歌った事もある。
カバーは今の業界では流行だし、ある程度の数をこなす安定の魅力は
あるのだろうが、所詮そんなものは他人に任せればいい。
本来の意味で『役不足』だと思う。

鬼束ちひろは平然と言い切る。

あたしは言葉からじゃないと曲が創れない
あたしがやりたいのはみんなを圧倒する歌


詞をかけなくなったら、あの歌唱力と表情を売りにしてやればいい。
自分にとって、彼女の魅力は飽くまでも‘詞’であり、それを失うことは
‘死’を意味する。
言葉を搾り出すのではなく、言葉が迸る。
そんな大切な時期を大事にして欲しい。

事務所とかレコード会社の問題は、私自身全く不案内なのでコメントできない。
が、彼女の才能が枯渇する前に別の要素で埋没させられるのは絶対避けたいところだ。

2005年3月11日金曜日

そんな曖昧な冬

そんな曖昧な冬


40年前の冬は
一旦冬を演じると
徹底的に冬を演じていた

根雪と言う言葉通り
一度冬で覆ったら容赦なかった

だから春になって道の両側や日陰に
汚らしく残った潔くない雪を横目に
土埃がたつ道を自転車で快走する
それがボクの春の実感だった

冬の間
物置の中で冬眠を余儀なくされていた自転車も
心なしか浮かれていたのだ
進級、クラス替え、先生の異動、そして進学と
常に春は新たな環境のスタートと共にやってきた
だから春は必ず心が躍った

地球が暖かくなったのか
社会整備が冬の駆逐に腐心しているせいか
最近の冬は寒くもなく
雪も直ぐに退治される

そんな曖昧な冬のせいで
過ごし易くなったのかもしれないが
春への渇望も曖昧になった

環境の変化も無く
別れも無く新たな出会いも無い春がやってくる

すっかり弱っている心臓には
少し優しい温かみがせめてもの救いだ

2005年3月10日木曜日

右つめでお書き下さい~ある帰国子女の場合~

外資系には素直に帰国子女が多い。
彼・彼女等は外国語に堪能な分、逆に日本語や日本の習慣に不慣れでそれが笑い話を生む。

私が耳にしたことがある話しとしては・・・

・至る所にある「月極駐車場」を見て、月極さんという人は全国に土地を持っている超リッチな
 人に違いないと真剣に思っていた奴

・アニメの巨人の星で♪思い込んだら~♪と言う歌詞を聴いて、グランド整備に使うローラーを
 重そうに引いている絵と重ね、「重いコンダラ」として、あのローラーは「コンダラ」と言うに違いない
 と信じていた奴


しかし、私が最も気に入っているのは実際に私の友人の弟君がやった以下の話だ。

その弟君は銀行に行って初めて自分の口座を開設しようとした。
伝票の住所、氏名欄等をボールペンで記入していったが、金額欄のところで手を止めた。

(金額欄は右つめでお書きください。)

右つめ?
暫く悩んだが、彼にはひとつの答えしかなかった。
おもむろにボールペンを置き、右手の人差し指の爪を思いっきり立て、10000と書いた。

正確には掻いたというべきかも(笑)

必死に爪を立てたものの勿論、金額欄は真っ白。
当然、彼も「こんなんでいいのかな」と疑問に思ったが、伝票の2枚目を見て大いに納得。
カーボンのお陰で、2枚目以下の伝票の金額欄にはくっきりと10000の数字が・・・。
「そうか、これは何かセキュリティー上の問題で1枚目は金額が見えないようにしてあるんだ」
彼としては自分が自信なく行った行為が、実に理に適ったことだと感動したらしい。

残念ながら、その感動は長くは続かなかった。
なんとも‘無粋’な窓口のテラーが
「金額欄の記入をお願いします。」と言って、彼にボールペンを渡したのだ。

この話を聞かされた私達は大爆笑。
と同時にすかさず友人にこう尋ねた。

‘弟君って、右利き?’

2005年3月8日火曜日

或る異業種交流会を懐かしむ

ディーラーと言う人種は、仕事は極めてグローバルな割りには、意外に狭い世界で生きている。
部外者が入れないようにセキュリティー・ロックされた部屋に引き篭もり、
相場の動きやニュースをいち早く伝える通信社のスクリーンを睨みながら、電話で取引をする。
海外のディーラーと話すが、実は顔も知らなかったりする。
そうやって毎日が過ぎていく。
ディーラー同士の懇親の場もあるが段々飽きてくる。

そんな私が異業種の人間と知り合える会があった。
発起人はN氏、当時は某生命保険会社の支社長だった。
最初の例会は1995年の11月、生憎私はマドリードへの出張と重なり出席できなかったが、
第2回目からは、身体を壊すまでの約5年間、毎月の会には欠かさず出席した。

メンバーは多様だった。
IT関連、M&Aコンサルティングで自ら起業した人々、一部上場企業の関連会社社長、弁護士、
不動産会社社長、医師、広告会社経営者、台湾&中国コンサルタント等々。
あとWカップで笛を吹いたサッカーの国際審判O氏、歌舞伎役者のI.U.氏もメンバーだった。

メンバーの殆どが、経営者か個人事業主であり、所謂リーマンは私くらいだった。

月々の例会は六本木にある会員制のサロンで行われていたが、毎回12時を回っても
大半のメンバーが居残るほど盛り上がっていた。
直接何かビジネスに結びつけると言うよりは、メンバーの人間的な交流が主だった。
他に、分科会と称して食事会、ゴルフコンペ、チャリティーコンサートの鑑賞等も行われた。

歌舞伎役者がいたのと、N氏が歌舞伎や能楽に造詣が深かったせいで、観劇の会も頻繁に
開かれた。
私自身も妻と一緒に初めて歌舞伎を観に行き、その後の食事会をメンバーと共に愉しんだ。
そこに、熱演を終えたばかりの歌舞伎役者の彼が浴衣姿で現れた時は、妻も感激の様子で、
こういう会に参加できている私をほんの少しだけ見直した風情もあった。

リーマンでありながら、会の中での私は一言で言えば態度が大きく不遜でもあった。
初対面の人間に対しても常に思ったことを何の遠慮もなく言ってしまう、所謂直言癖が
時にトラブルを起こす事もあったに違いない。
それでも、会の主宰者であるN氏特有のきめ細かい手腕で会は順調に運営されていた。

2001年の夏、私が穢土を離れるにあたっては、N氏とメンバー中で一番仲が良かったI氏が
送別会を企画してくれた。
私と縁の深かったメンバーに限定して参加者を募ったが、思いの他の出席率で
急遽会場を変更する破目になった。
2次会には、夜の公演を終えた歌舞伎君が駆けつけてくれたし、
二人の歌姫がMISIAのEverythingを実に感動的に熱唱してくれた。

かつて私の舌の毒にまみれた人達も居た筈なのに、みんな‘最後の優しさ’で送ってくれた。

奇しくもその送別会を機に、会は一旦休会になる。
やはりコアメンバーの私が抜けたのが大きな痛手に・・・(^。^)
というのは全然関係なーーーーーーし!

N氏が独立して日本の古典文化をアーカイブする事業を起こし、
繁忙を極めていたのが理由だった。

しかし、その後暫くして彼は動き始める。
会の名前は変更され、定例の会も3ヶ月に1回になったが場所は同じ。
有難いことに彼はいまだに、この種の案内のメールの送付先に私を含めていてくれる。
実際に参加できる可能性は極めて低いが、穢土の風を感じることができるのが嬉しい。
最新のメンバーの名簿のファイルを見ると、懐かしい名前の他に、知らない名前が盛り沢山。
カテゴリーも様々だが、どれも錚々たるもので魅力的に見える。
人と人を繋ぐ‘出逢いの神様’との異名を持つN氏ならではの世界が構築されている。

この名簿を見ながら、私は何故か妙に心が揺れた。
未知の人間がどれだけの魅力を持つか、文字通り未知だが、健康で穢土に棲み続けていたら、
会に出席できてだろうと考えると‘悔しさ’にも似た感情に襲われた。

病気と引き換えに、田舎でのslow & lazy lifeを得て、
それはそれで十分に居心地の良い筈だったのに・・・。

何故なのだろう、穢土に未練を感じてしまった。

或いは、この4年間で職業欄を無職とすることに抵抗感が無くなっていたのに、
あの名簿に‘無職’じゃ立場が無いよな、なんて久々に自嘲的な考えが頭をかすめた。

2005年3月7日月曜日

最強のレバニラ

東京を離れて当地にやって来て最も痛いのが外食文化の差だ。
ラーメン屋を含めて、何かを食べていると‘あぁ、東京の○×△で食べたいなぁ’
と思うことしきりである。

そんな中、私の人生史上で最強のレバニラ炒めを提供してくれる中華料理店がある。
通い始めて1年半位だが、兎に角、旨い。
レバーが新鮮、そのレバーに軽く粉を振って、サッと油を通して、強火でニラと手早く炒める。

実は、妻はレバーもニラも苦手だ。
牛のレバー刺しは勿論のこと、焼き鳥でもレバーは食べない。

‘わたし、レバーのあの食感が嫌いなの’
‘じゃあ、なんでフォアグラは喰えるんだよぉ’と私に突っ込まれると
‘フォアグラは別よ’と意味不明の返答。

ニラも何故か黄ニラは食べるが、普通の緑のニラは嫌いだ。
だから、レバニラ炒めは彼女にとっては‘地獄のコンビネーション’の料理ということになる。

そんなことは一向に構わず、この店に来れば私は必ずレバニラ炒めを注文。
彼女も恐る恐るだが、1~2ピースは食べてはいた。
しかし、その後通いこんで行くにつれて段々個数が増えていき、
‘わたし、ここのだったら大丈夫かも・・・’と抜かし始めた。
最近では、3分の1は食べるようになった。そして

‘自分でもこの年になって好き嫌いが直るとは、おまけに一挙にふたつも・・・’と感慨深げだ。

店主は赤坂の四川飯店、目黒雅叙園で修行、カダフィ大佐のリビアで日本人商社マン相手の、
料理団の団長をしていた経験もあるらしい。

今でも、毎年1週間程度中国へ渡り、修行という名の下に食べ歩きをしているのだが、
今年はそれがなんと3週間近くの長期に及んだ。
その間、勿論店は臨時休業。

でーーーー、今日は晴れて営業再開の日。
当然、勇んで昼食に出かけた。
ほぼ満席だったが、相席で滑り込み。
何度か見かけたことがあるが、市長様御一行の姿も。
お茶を運んできた顔見知りのおばちゃんに、
‘レバーと麻婆ね’と最強の定番を注文。
‘すいません、今日、レバー入らなくて・・・’

が~ん・・・(-_-;)

確かに周りを見渡しても食べている人がいない。

面白いのは次々にやってくる客をウヲッチすること。
殆どの客が、レバーを注文し、無い事を告げられた時のショックの表情がイイ。
我々もそうだが、みんな数週間お預けを喰らって禁断症状の中、折角初日に駆けつけたのに
お目当てのモノにありつけない。
そんなある種の錯乱状態の中で、更に容赦なく‘で、ご注文は?’と攻め立てられる。
流石に‘レバーがないなら帰る’という兵は居なかったが、注文を聞かれ
‘じゃあ、まかせる’と投げやりになった客は居た。

そんな連中を観察しながら逆に、ここのレバニラファンの多さに妙に心が和んだ。
将来、なんらかの理由で穢土に戻ることがあっても、レバニラ炒めだけは当地のこの店
を恋しく感じるかも知れない。


ところで、レバニラかニラレバか?
ググッった勝負では、レバニラ24,400件、ニラレバ8,200件でレバニラの圧勝。

全く関係無いが、‘タラレバ’は7,880件、‘たられば’は13,100件あった。
人生に‘タラレバ’は無いと言いながら結構あるもんだ。


じんせいに

     たらればがなくたっていいじゃないか

          にらればがあれば
   
               にんげんだもの

                    by なりぽん

2005年3月6日日曜日

明日は危険日?~心筋梗塞を最も発症しやすい日~

危険日かぁ。
そんな言葉最後に使ったのって記憶にも無いくらい遥か昔だな・・・(>_<)

しかし、よく考えてみると‘危険日’‘安全日’って表現は奇妙と言えば奇妙だ。
妊娠することがリスクになる立場の男女の側にたった表現なのに、
それが社会全体で完全に主流になっている。

う~む、世の中そちらの方の人間が圧倒的に多いってことか・・・(・o・)

真剣に子供を欲しがっている夫婦の会話が

‘よ~し、今日は絶好の危険日だ。がんばるぞ~ヽ(^o^)丿’ってのもなぁ。

と言うところで、本題に入ろう。
‘明日は危険日’一体何が危険なのだろう。

テレビの健康番組でやっていたのだが、3月の第1月曜日の午前中が心筋梗塞の発症
の確率が最も高いそうだ。

因みに私のケースは2月9日第2水曜日朝6時過ぎだった。

発症は年間を通じて見れば、やや乱暴な数字だが冬場が50%、夏場が25%、他が25%だ。
寒いと一般的に血圧が高くなり、暖房の効いた空間から寒い外に出たりすると一挙に
血圧があがったりして危ない。

朝はコーヒーと煙草、地下鉄内は暖房でポカポカ、降りてから強いビル風の中をコートも
着ずに背中を丸めて会社まで・・・な~んて(私の日常そのものだったが)危ない。

家の中にいても、トイレ、脱衣所、浴室等の温度差が生じる場所は危険だ。
ゴルフの後のサウナでサウナ⇒水風呂⇒サウナ⇒水風呂も危ない。
雪景色に囲まれた熱々の露天風呂なんかも危険がいっぱいだろうな。

曜日的に月曜の発症率が高いのは、世界的にも当てはまる。
これは心筋梗塞に限らず、先日発表になった自殺に関する統計でも、
男女とも月曜日が最も多かった。

いわゆる‘サザエさん症候群’とも相通じるメンタルな要素だろう。
海外ではポケモンはやっていてもサザエさんはやってないが、blue Monday と言う言葉
があるように、人類共通のシンドロームだろう。

イスラム圏では金曜日が休日のところがあるが、統計的にどうなっているのかね。

遺伝的因子、肥満、高血脂症、喫煙、ストレス、高血脂症・糖尿病・高尿酸血症、A型性格などが
急性心筋梗塞の危険因子だが、心当たりのある人は、取り敢えず今日はサザエさんを
観ないことをオススメする。

えぇーー、もう観ちゃった?
ってヤバイ人は、
気分転換にはやっぱりこの曲でしょう(笑)

The rainy days and Mondays always get me down
雨の日と月曜日は

2005年3月5日土曜日

帰り来ぬ青春、戻らぬ感性

~創造と感性は、閃きや思いつき、非論理的な飛躍を可能にする~

自分の場合、ピーク(別に大したレヴェルではないが)は20歳前後だったのだろうか。
その後は全く駄目だ。
人間の脳の重さは20代前半を過ぎると段々と減っていくそうだ。
別に脳の量と相関があるとも思えないのだが・・・。

こうして病魔に侵されて、もしかしたら何らかの繊細さだとか創造力だとかが
逆に蘇生するかとも期待したがそれも無い。

2005年3月4日金曜日

Both Sides Now 青春の光と影~或いは人生の光と影~

JTがテレビのCMで使っている曲Both Sides Nowは我々世代には懐かしい。
初めて聴いた人々にも優しく響いたと思う。

この曲はJoni MitchellがJudy Collinsのために作り、それが映画に使われヒットした。
邦題は「青春の光と影」、訳者のセンスも悪くない。

Both Sides Now
青春の光と影




Bows and flows of angel hair
弓や 流れる天使の髪
And ice cream castles in the air
空に浮かぶ アイスクリームの城
And feather canyons everywhere
一面に散る羽毛の峡谷
I've looked at clouds that way
雲とは そういうものだと思っていた

But now they only block the sun
でも今や 雲は太陽を遮り
They rain and snow on everyone
人々に冷たい雨や雪を降らす
So many things I would have done
これまで もっとたくさんのことができたはずなのに
But clouds got in my way
雲に邪魔されて何もできなかった

I've looked at clouds from both sides now
わたしは 雲をどちら側からも見てきた
From up and down and still somehow
上からも 下からも
It's cloud illusions I recall
だけど 雲なんて 所詮ただの幻影
I really don't know clouds at all
結局 雲のことなんて何も分からない

Moons and Junes and ferris wheels
月と6月と観覧車
The dizzy' dancing way you feel
踊って目が回るようなクラクラ感
As every fairy tale comes real
おとぎ話が本当だったころ
I've looked at love that way
愛とは そういうものだと思っていた

But now it's just another show
しかし今や 恋愛はただ噂の的になるだけ
You leave them laughing when you go
別れの場面に 人々は興味深々
And if you care' don't let them know
だから 本当に好きな相手のことは ひた隠し
Don't give yourself away
自分を殺して終わってしまう

I've looked at love from both sides now
わたしは 愛をどちら側からも見てきた
From give and take and still somehow
与える側からも 受け止める側からも
It's love's illusions I recall
だけど 愛なんて 所詮ただの幻影
I really don't know love at all
結局 愛のことなんて何も分からない

Tears and fears and feeling proud
涙を流したり 恐れを抱いたり 誇りに思ったり
To say "I love you" right out loud
大きな声で「愛してる」と叫んだり
Dreams and schemes and circus crowds
夢と計画とサーカスの観客
I've looked at life that way
人生とは そういうものだと思っていた

But now old friends are acting strange
だけど今では 昔の友達は妙によそよそしく
They shake their heads' they say I've changed
頭を横に振っては「君は変わった」と口々に言う
But something's lost and something's gained
そう 確かに何かを失ない 代わりに何かを手に入れてきた
In living every day
日々の生活の中で

I've looked at life from both sides now
わたしは人生をどちら側からも見てきた
From win and lose and still somehow
勝つ側からも 負ける側からも
It's life's illusions I recall
だけど 人生なんて 所詮ただの幻影
I really don't know life at all
結局 人生のことなんて何も分からない



因みにCMで使われているのは歌・演奏はエミリー・チェイス、編曲はパット・セイモア
という人でCD等での販売はしていないとのこと。
しかし、JTさんも何とか生き残りをかけて必死にBoth Sidesを主張しているのかもしれないが、
近い将来非喫煙者のOne Sideになるのは必至だろう。


青春には光と影があっていい
そうした陽画と陰画があってこそ
まさに光沢に満ちた人生が可能になる

by  なりぽん

2005年3月3日木曜日

藍ちゃん切手、ご用心?

藍ちゃんの写真付き切手が発売になって人気になっている。
80円切手が10枚ついて、2650円、他に500円の送料がかかる。
Wカップで世界一になり、その後のANZでも惜しい2位になり、スポーツ紙の一面に
『藍』が乱舞した絶妙のタイミングだ。
だがこの企画は去年からあり、3月の発売は予定通りらしい。

私自身も日記でも何度も取り上げたように、藍ちゃんの大ファンである。
当然、飛びつきたくなるが飛びつかない。

実は、以前、松井秀喜の写真付き切手を買ってえらく後悔した経験があるからだ。
松井の場合は同じく80円切手が10枚ついて、3150円だった。
私は朝日新聞の販売所を通じて買ったので、それだけだが、通常購入だと送料として
他に500円かかった筈だ。
予約販売だったので現物を目にすることなく注文した。

届いたものを見て、唖然・・・<`ヘ´>

ホルダーはまだ良いとして、肝心の写真は気が遠くなるほど粗悪だった。
今の時代、一体どうすればあれだけ発色の悪い印刷ができるのだろうか。

家族や友人に自慢げに見せるはずが、完璧に自嘲気味に見せるしかなかった。
尚且つ、彼等の反応は等しく「なにこれ?」「しょぼ~い」「高いな」であり、
完全なダメだし状態だったのだ。

あんな粗悪品にお金を使ってしまったという後悔の他に、別の苛立ちがあった。
自他共に認める、謂わば狂信的なヒデキファンの私としては、松井秀喜をつかうなら、
それ相応の質を伴って欲しいということだ。
赤ら顔だったり、逆光で顔が判別できなかったり、どんなセンスの悪い人間でも
あそこまではしないだろうという最悪のクゥオリティーだ。
こんな質とは知らずに、松井のネームヴァリューだけで買ってしまった人延べ5万人
だそうだ。
因みに松井秀喜の販売元はプレジールという会社だ。
他にはマツケンを発売している。

別会社が「冬のソナタ」を取り扱っているが、風景が殆どでドッチラケらしい。

そもそもこの写真付き切手というのは郵政公社が一般人を相手にも行ってるサービスで
基本は80円が10枚で1000円。

販売価格からこの1000円を引いた分が、どうのように配分されるかは知る由もないが
ボロイ商売の感は否めない。

藍ちゃん切手の救いは、販売元が地元沖縄県東村の第3セクターで収益金の使途が
人材育成という社会性を持っていることか。

2005年3月2日水曜日




ことごとく、扉が閉まっていた
2月が
終わること自体が
ひとつの大きな扉を開ける

ノブの無い扉の前で
立ちすくみ
『力』というディメンションが
およそ無意味な2月が去って

春の光に浴していれば
全てが『可能』の二文字に
連なる
クリアーな3月が到来した

それが扉であるか否かさえも分らず
彷徨を続けた僕が
その僕がだ!

今や、はっきりと扉と分るその前に立つだけで
何の音もたてずに
僕を招き入れてくれるのだ

もう『努力』という二文字に
冷たい笑いを浮かべる