本山葵をおろして密閉容器に入れて目指すは新蕎麦だ。
そうなのだ、この店はいつも新蕎麦の扱いが当地では一番早い。
今年は電話で確認することをせずに出かけたのだが、残念ながらまだやっていなかった。
新蕎麦は逃したが、ひとつの‘収穫’があった。
注文して待っている間に読んだ週刊文春で興味深いコラムを見つけたからだ。
読みながら私は快哉を叫んだ。
これはまさに正論、普段私が感じていることを見事に代弁してくれている。
そう思うと記事をなんとか保存したい衝動に駆られて、妻の携帯で撮影しようと試みたが、
何しろ2002年生まれの時代物のうえ店内も暗くて話にならない。
やや未練を残しながら店を後にしたが、何のことは無かった。
家に戻って早速ググってみたら一発でヒットした。
新聞不信(週刊文春2008年9月25日号)
新聞はイチローに甘すぎる!
前々から思っていたのだが、新聞のイチロー報道は、少し甘すぎるのでないか。
日本人選手が増えるのに比例して、大リーグの結果が朝刊紙で報道されるのは当然のことだが、「8年連続200安打まであと何本」とイチローの安打数に一喜一憂するがごとき報道が続くのは、長年の大リーグファンとしてなんとも納得しがたい。
たしかに、これは大リーグにあっても大記録なのだろう。それが日本人打者によって達成されるのは喜ばしい。
しかし、はたしてイチローは無謬の打者なのか。
イチローの所属チームは一位から三十ゲーム以上も離され、哀れなほど弱い。
そんなチーム状況をヨソに、イチローは自分の安打を増やすためだけに野球をしているように見える。
むしろ、イチローが自分の記録を優先したために、チームの勝ち星が増えないのではないかとさえ思われてくる。
日本の新聞にそのような視点での報道はない。しかし、アメリカのメディアは、チームメイトのなかにもそういう批判があることを報じているようだ。
実際、九日のゲームでは、第4打席に右足つま先に死球を受けながらも、審判に促されるまで一塁に走らなかったことが報じられている。
チームのために出塁するより、安打を稼ぎたかったのだ。ある夕刊紙は、イチローの「セコさ」と揶揄していたが、まさにその通りだ。ところが一般紙ではこうした批判的な報道は見受けられなかった。
とにかく最近は、「イチロー4安打 200本へ残り10(11日付け朝日夕刊)とか、毎日もこうした見出しのあとに『8合目』・・・・・大きく前進」といった具合で、イチローのコメントを共同配信で伝えていた。例によって“高邁な安打論”である。
レッドソックスの松坂の制球力のなさについては「地元もため息」(10日付け朝日夕刊)と自社の記者の冷静な記事もあるのだから、こうした筆調の記事が、なぜイチローに関しては少ないのか。
イチローの巧妙なメディア戦略で、野球の面白さが封じられているように思う。
死球を受けたら塁出ろよ、自分のわがままを押し通してはいけない、と忠告するのが記者の務めである。
(翼)
私はこの翼さんの言っていることが正論だと思うが、世の中には異論を唱えたい人々も多いだろう。
別にそれで構わないのだ。
松井秀喜の報道を見聞きしてもファンの私が、いやファンであるからこそなおさら
辟易する内容のものも多い。
最大の問題点はこの手のマスコミやメディアのステレオタイプが
受け手の価値観のステレオタイプを招いていることだ。
この問題については去年も書いている。
スポーツニュースは恐い 刷り込まれる<日本人>(森田浩之 著)
~馬鹿マスコミに洗脳されないための一冊になる?~
まあ私のような浅薄な男がこれ以上語っても‘高邁なマスコミ論’にはならないし、
そもそも今日はこの翼さんのコラムをより多くの人に読んでもらうことが純粋な目的なので、
私の妙な‘不純物’はこれぐらいにしておこう。
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