そして、その人達の誕生日に、毎年何かしていますか?
そもそも、人は、加齢とともに誕生日を祝う感激を失っていく。
子供の頃は、お互いに誕生日会を開いて祝っていた。
自我に目覚める、或いは恋心が芽生える、青き十代には、
誕生日は、何らかの‘心情’を相手に伝える、絶好の日だった。
20歳前後(←前はダメだろ)になって酒を飲むことを覚えると、誰かの誕生日は飲み会を催す、
格好の理由となった。
それが‘社会’に出て仕事をするようになり、お互い忙しくなり、
或いは‘結婚’をして家庭を築く頃になると、次第に誕生日を祝い合う機会が減っていった。
幼稚園の頃に比べたら、関わりあう人間、知っている人間の数は、飛躍的に増えている筈なのに、
誕生日をネタにしたイベントは寧ろ減っていくのだ。
そして、更に歳を重ねると、その傾向は顕著になって行くのだ。
人はある程度の年齢に達すると、異口同音に自分の誕生日なんかちっとも目出度くないと言う。
寧ろ、ひとつ歳を重ねることにより若さを喪失するネガティブイメージを持ってしまう。
確かに、1年経つ毎に、心身ともに‘成長’していく若い時代と比べると、
寧ろ、1年ごとに何かが‘退化’していくようなマイナス・イメージを抱いてしまう。
だから、そういう歳に達した連中に‘誕生日おめでとう’と言っても返ってくる言葉は
‘全然目出度くないよ’になってくる。
まあ、自分もそうだったが、こういう反応をし合っていると、段々と‘おめでとう’と言う事が、
ディスカレッジされていく。
すると、昔はきっちりと‘暗記’していた相手の誕生日も‘忘却の彼方へ’となってしまうのだ。
そんな中、ナリポンが一度も忘れず毎年誕生日にお祝いをしている、女マブダチが一人いる。
ただ、ある年、彼女と誕生日に連絡を取れない状況が生じたのだ。
彼女はイギリス留学をしていた。
留学中は電話でお祝いが出来たのだが、その年の誕生日は、なんと留学を終え、
日本に帰る飛行機の中にいる、ということがわかった。
エール・フランスで一旦シャルル・ド・ゴールに飛び、そこからNRTへ飛ぶという。
‘う~む、何とか、誕生日その日に、祝う方法はないものか’
松井の連続出場記録じゃないが、なんとかしたくなった。
早速、日本のエール・フランスに電話。
事情を話して、ミールに何か工夫ができないか打診。
しかし、日本発ならば日本支社でなんとでもアレンジできるが、
向こう発だと無理だと、言われた。
そこで、諦めずに食い下がるのがナリポンの持ち味。
‘でも、あなたも同じ状況で、何らかの形で誕生日のお祝いをされたら、
感激しませんか。
人間ってサプライズがあると、感動は増しますよね。
何かコストを伴うなら、利益をのっけた分を払う用意があります。
もし、それでそのサーヴィスが実現しなくても、ノー・クレイムを約束します。’
相手の女性もスマートだった。
‘わかりました。何か方法がないか検討して折り返し連絡します。’
結局、金が絡んだものは無理と言う事だが、カードを届けることは可能
(但し、実際に届くかどうかはノー・ギャランティ)と言う結論。
ド・ゴール空港で乗り換えて、着席した彼女に封筒は無事届けられた。
ただ、思わぬものを手にした彼女は、誰か身内に不幸でもあったのではと恐怖したそうだ。
で、実際開封して、カードを開くと
♪チャンチャンチャン、チャ、チャチャチャチャチャ、チャチャチャチャ、チャーチャチチャ♪
字にしたところで、何の曲か分る訳ないけど、実は‘巨人の星’のオルゴールヴァージョン。
音に驚き、慌ててカードを閉じたらしいが、その年の彼女の誕生日も、なんとか祝うことができた。
その後も‘連続記録’は続いている。
最近は、携帯もあり、メールもありで容易に確実にキャッチできる分、
逆にあの年味わったような‘楽しみ’は無くなった。
私自身は、病気をしてからは毎年、無事に誕生日を迎えるたびに‘メデタイ’と思うようになった。
ただ、周りの人間は相変わらず‘メデタクナイ’と思っているから、祝ってくれない。(笑)
そうそう、誕生日ネタで気にいっているのは、お笑いの‘いつもここから’のネタ
『コノヤロー、‘わたし44だけど四捨五入すると40よね’って言ってんじゃねぇーぞ、コノヤローメ』
『コンニャローメ、おまえ来年なったら、‘わたし45だけど四捨五入すると50よね’って言うのか、コンニャローメ』
年齢をいくら切り捨てたところで、人生は斬り捨てられない。
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