2005年4月29日金曜日

遺族の悲しみ~逆縁かつ突然の事故死~

テレビは今回の脱線事故の死亡者の葬儀の様子をこぞって報道している。
妻は自分のテレビを観ているときは、直ぐにチャンネルを替えているらしい。

故人と色々な関係の人間が悲しんでいる。
私はニュースを観ながら‘逆縁’という言葉を思い出した。
検索してみたら、こんな逸話があった。

村人が一休さんにいいました。
「なにかめでたいことを書いてください」

一休さん
筆をとって

『親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ』

村人は言いました。
「一休さん死ぬ死ぬって、どこがめでたいんですか?」

一休さんは言いました。
「孫が死んで 子が死んで 親が死んだらどうなんだろうか
それが人にとって一番つらいことだろう」

村人は大きくうなずきました。


逆縁とは、仏教の言葉で、年長者が若い死者の供養をすることで、特に親が子の供養を
することを言う。

昔、NHKで瀬戸内寂聴が悩める人々の前で語っているのを偶然見たときに初めて耳にした。
死の中でもっとも悲しいのはこの逆縁としている。

今回の事故で亡くなった人達の遺族の悲しみ較べを勝手にしている訳ではない。
ただ、一般論としてこの逆縁の悲劇性は理解できるような気がする。

時の経過と共に、悲しみは癒されるのが普通だが、逆縁の場合は軽減されるどころか、
逆に深まることもあるそうだ。
「もし生きていたなら、今日は二十歳の誕生日か」とか考えてしまうのかも知れない。

加えて、今回の事故のような突然の死のケースでは悲嘆は、より複雑で回復はより困難だ。

J.W.ウォーデン著/鳴澤實監訳『グリーフカウンセリング 悲しみを癒すためのハンドブック』から
引用する。

1) 非現実感が長期間続く
 突然の予期しない死であるために非現実感が生じ、長く続く場合がある。感情の麻痺したような状態や呆然とした状態として表れる。

2) 罪悪感が激しい
 実際には、遺族にはなんら責任はないわけであるが、「もし…していれば」という罪悪感が生じる。また、子どもの場合には死の前に親に怒られたり、兄弟とのけんかで「いなくなってしまえばいい」とか、「死んでしまえばよい」などと思ったことで、死んだのではないかという罪悪感が生じることがある。

3) 誰かを非難してしまう
 罪悪感に伴って、家族の誰かを非難したいという欲求が生じやすくなる。特に親がついていて子どもを守れなかった場合には、その親への非難が生じたり、兄弟の一方が亡なった場合には、もう1人の兄弟に対して非難や欲求不満が向いたりする。

4) 裁判などが終わるまで悲しむことができない
 交通事故で刑事裁判や民事裁判、補償の問題があるとそれに気をとられてしまい、十分に悲しむことができないという問題が出てくる。これらの手続きが終了した後に、悲嘆反応が表れることがある。

5) 強い無力感と怒り
 突然の予期しない死は、自分たちにはどうすることもできないという感覚を生じさせ、強い無力感を生む。この無力感に対抗してコントロール感を取り戻そうという試みでもあるが、激しい怒りが生じる。しばしば「加害者を殺したい」というような発言として表れる。

6) 故人の遣り残したことの問題
 故人が何かを遣り残している場合には、遺族がそれを痛ましく思い引き継いで行うことがある。これを行うことが回復につながる場合もあるが、残された兄弟が親の期待という圧力で兄弟の役割(進学、進路、親への関わり方)などを引き継がなくてはならないというようなことも起きてくる。

7) 死について理解したいという強い欲求
 事故による死は理不尽なものであるが、どうしてそれが起きたかについて理解したいという欲求がある。それは事故の状況を確認したい、誰に責任があるか追求したい、加害者がどうして事故を起こしたか知りたいという欲求ともなる。そのために民事裁判を起こすこともある。

8) 精神疾患をきたす
 PTSDやうつ病、不安神経症、アルコールや薬物依存症などの精神疾患をきたす率が高い。



私は2000年の2月に死の淵にたった。
2001年の2月に母が逝き、昨年の6月には父が逝った。

ささやかではあるが、二人に逆縁の悲しみを味あわせなかった事は孝行になったかもしれない。

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