2005年7月3日日曜日

続・語っても語り尽せない‘長嶋茂雄’をあえて語ってみる~その‘歴史的存在’~

ある歴史の講師が、授業が始まるや否や、黒板に
‘1974年10月14日’と書いた。
‘50年後に、100年後に、或いは300年後にも、この日の持つ意義が語られる。
それが、歴史というものだ。’

私には、余りにも簡単な数字の並びだったが、周りの女子学生は特に、
男どもも、キョトンとしていた。
まさか、‘経済史’の講師が‘長嶋茂雄の現役引退の日’を話題に持ってくるとは
想像できなかったのであろう。

昨日の日記に、ブログサーチでトラックバック相手を探した私は、正直ガックシだった。

大半が長嶋茂雄に、或いは、彼のドーム観戦に否定的だったのだ。

‘どうせ読売の客寄せに使われているだけだろう’

‘いつまで、O.N.に頼ってるんだよ’

中には、‘老害’という言葉を遣っている輩もいた。

確かに、私のようないわゆる‘長嶋信者’からみても、長嶋茂雄‘尊重’ではなく、
長嶋茂雄‘偏重’、或いは‘過剰な依存’ではないかと思えることはある。

去年のアテネオリンピック、(絶望的なのは明らかなのに)ギリギリまで監督としての出場の
可能性を引っ張ったり、いまだに、北京も‘長嶋ジャパン’で行くという方針を打ち立てたり・・・
そういう形での‘復帰’には私個人としても疑問を感じる。

ジェネレーションによって価値が異なる事も充分に理解できる。

ただ、長嶋茂雄は明らかに‘歴史的な存在’である。
それも、類稀なる‘別格の存在’だ。


私は、‘長嶋世代’ではない。
現役時代の活躍を知る、最後の世代かも知れない。
私より、ちょっとだけ若い妻(と言っても、いまや完全なオバサンだが)でさえ、
知っている長嶋は2割5分の打者だった、と言う。

去年の6月に亡くなったオヤジは、長嶋世代よりは上だった。
ただ、3月に長嶋氏が脳梗塞で倒れた時は、自分の体調以上に心配し、アテネを案じていた。

死が近づいて、意識レベルが著しく低下した中でも、‘長嶋’‘巨人’の単語には反応をみせた。

‘巨人が勝ったよ’と言えば、微かに笑顔をみせてくれた。(ように見えた)

私は、一瞬、壮大な嘘で、オヤジを喜ばせようかな、という衝動に駆られた。

‘長嶋が元気になって、監督やって、金メダルを取ったよ’

最終的には、嘘はつかなかった。
いや、私が迷っている間に、嘘をついても相手には通じない状況になっていたのだ。

今日、ドームに現れた、長嶋茂雄。
相変わらず、お洒落だった。
ただ、歩き方や、口元には後遺症が・・・

それでも、絶やさぬ笑顔は素敵だったし・・・

私の涙腺は、予想に反して堪えた。

ただ、いつも抱いているあの疑問が、頭を過ぎった。

これだけの国民的なヒーローに国民栄誉賞を与えるのは、
やはり亡くなった時なのだろうか


まあ、時の政権の気まぐれで決められる賞に、殊更、価値を認める必要も無いのだろうが、
長嶋茂雄ほど、あの賞にふさわしい存在はないと思うのだが・・・

‘老害’だと非難する連中も、その辺は‘異議な~し’だろう。
現在の価値を云々するのは自由だが、‘歴史的な価値’には、是非従順になって貰いたい。

どうせなら、受賞をして喜ぶ長嶋茂雄を目にしたいじゃないか。
これだけのグッド・リーズンがありながら、その‘きっかけ’が訃報以外には
ないと言うのは、あまりにも悲しすぎないか。

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