2005年7月14日木曜日

青葉のラーメン~食の‘知的所有権’について考える~

5月の話だが、中野の人気ラーメン店、‘青葉’の店主が、
‘秋葉家’というラーメン店の経営者に監禁、暴行されていた事件があったらしい。
加害者は、‘味も商売も教えたのは自分なのに、挨拶も謝礼もないのは許せない’としている。

まあ、二人が知り合いであることは間違いないらしいが、
それ以上の事実関係はわからない。
(状況的には、あの‘仙人’が一方的に悪いと思うけどね。)

中野の青葉は、私が穢土に棲んでいた頃は、お気に入りのラーメンだった。
初めて食べたのは、1998年。

洗いざらしの白地に赤い文字の暖簾、銀座8丁目にでもありそうな
古いカウンター・バーのような作りで席数も10足らず。
エアコンもなく?外気が自由に出入りする。

そんな戦後間もないような(←みたこともないのに)レトロな店。

あれで、こてこての(笑)支那そばでも出てくればイメージぴったりなのだが、
出てきた一品は、なんとも味わったことのないテイスト。
特製でトッピングされている、具も中々の味だ。

作っている主人はメガネをかけ、マスクをかけて(←胡椒アレルギーの説あり)、
きちんとした手さばきで仕事をしている。
大袈裟に言えば、外科医の如くだ(←確かに大袈裟だ)

この、青葉が生んだスープは、魚系(かなり濃厚)と動物系とを合わせた、
‘ダブル・スープ’と呼ばれ、一躍脚光を浴びる。

つけ麺も2度試したが、ややインパクトに欠け、‘べんてん’や‘丸長’の方が好き。
で、その後は、具もウマい特製中華そば一辺倒。

2001年、穢土を離れる前にも思い出の一杯として食べたが、その後は、支店も増え、
今は、中野本店も芳賀氏本人以外が作っているらしい。

東池袋、大勝軒もそうだが、規模の拡大によって、より多くの人間が食する機会が生まれる一方、
その拡大が質の維持を阻害することもありそうだ。

ところで、青葉のラーメンについては、いわゆる青葉インスパイア系と呼ばれる店が多数ある。
青葉のラーメンを美味いと思った人々が、それに触発されて、似たような方法で、
似たような美味いラーメンを目指した結果だ。

‘触発’されたとすれば聞こえは良いが、有り体に言えば、パクッたということにもなりかねない。

だが、青葉の芳賀氏は、そういう店の店主相手に、謝礼も求めてないだろうし、
監禁、暴行もしていないだろう(笑)

中野の青葉を知る前は、‘青葉’、‘ラーメン’の検索ワードを私の頭に打ち込むと、
それは旭川にある青葉だった。

初めて行ったのは、1988年の2月だ。
5年間、南国シンガポールに‘軟禁’されていた私は、もうスキーがやりたくてやりたくて、堪らなかった。

友人の薦めで、旭川ステイのツアーに・・・、確かにスキー場を日替わりで選べるし、
夜は、旭川の町で、飲んだり喰ったりできる。

飲んだ後に、‘青葉’を探し当て、入ろうとしたら、なんとちょうど閉店しようとしていた。
なんとか主人に頼み込んで、入店。

魚出汁の香りと独特の食感の低加水麺、うまいと感じた。
店を閉めようとしていた筈の主人が、食べ終わったのに色々と話しかけてくる。
お客が自由に書ける雑記帳を渡され、感想と住所、氏名を書いた。

確か、北海道を旅行する若者向けのサーヴィスメニューがあった筈だ。
昔の‘カニ族’を相手にした名残かも知れない。

とにかく、この店主、初代ラーメン王の武内伸の寒いギャグではないが、
‘スープの基本はトリガラじゃなくヒトガラ’を地でいく感じだった。

その後、礼状みたいな奴が届き、東京に支店を開いた時には、案内状も届いた。

その旭川の青葉、開業は1947年、私が通った(3回だけ)時は2代目、今は、3代目がいるらしい。

ところで、ここのスープは何のことは無い、開業以来ずっと、ダブル・スープなのだ。

味わいは、中野の青葉とは随分と異なるが、ダブル・スープという概念では先駆だ。

というか、私が単に無知なだけで、旭川の青葉以前に、ダブル・スープを始めていた店が
他にあるかもしれない。

そう考えると、食における‘知的所有権’ってどうなんだろう。

人形町の‘玉ひで’が、日本中で作られる親子丼に課金したら、どうなるか。

とんかつ(カツレツ)にキャベツを添えるだけで、銀座の‘煉瓦亭’に
挨拶をいれなきゃならないのか。

あぶらそばをメニューに加える時は、武蔵境の‘珍珍亭’の許可が必要なのか。

より美味い食を求めて、真剣に努力を重ねている人たちには申し訳ないが、
食べる一方の人間からみれば、広く食文化の発展の為には、
料理人達が、是非、‘太っ腹’になって、我々の胃袋を満たして欲しいものである。

0 件のコメント: