称号が与えられるのか。
当時、時代を共有した、単なる懐古趣味のファンの評価だけでは、無理な話だ。
彼が、パックイン・ミュージックで取り上げたモノやヒトが素晴らしかったのである。
彼を論ずる時、サブ・カルチャーとかカウンター・カルチャーという言葉を使う人が居る。
確かに、彼が好んで取り上げた、音楽や映画や人物は、当時は陽の当らないものが多く、
サブ(副次的)であり、カウンター(対抗的)であったといえるかも知れない。
ただ、私はそういう文化論で、林美雄を‘解析’するのは余り好まない。
彼は、単に‘いい趣味’をしていたのだ。
‘まだ売れてないけど、こいつの歌いいと思うんだよな。’
‘あの映画館でしかやってないんだけど、この映画しびれるんだよな。’
もちろん、それらを発見する為には、彼自身、個人として相当のエネルギーを使ったと思われるが、
その自分の趣味や考えを、午前3時~5時という微妙な時間に電波に乗せて、
日本国中に発信できる喜びもあったに違いない。
彼自身が、言いたいことは一杯あるのに、売れてない駆け出しの評論家だとすれば、
ああいう場を与えられたのは、仕事を超越した遣り甲斐があったのではないだろうか。
彼の趣味は、多くの人に受け入れられた。
私も、大半のモノは素直に、共感したが、中には、どうも‘趣味の合わない’モノもあった。
ただ、段々と林美雄そのものに心酔していくと、その‘合わないモノ’すら
無理矢理、合わせてしまう自分がいたような気がする。
もう、その段階で、私にとっての林美雄は充分にカリスマ性を持つ存在だったのだ。
だが、林美雄のカリスマ性、それは、彼がいちはやく見出した‘原石たち’が、
後に光り輝く存在になることにある。
その多くの‘原石たち’は、もし林美雄が光を当てなくても、
その光を自ら発することができたかも知れない。
ただ、彼の力によって、或いは、彼によって動かされた多くの人々によって、
より確実に、より速やかにしたことは間違いないだろう。
☆ユーミン
最も、メジャーなのは、ユーミンだろう。
はじめて聴いた、‘ひこうき雲’や‘ベルベット・イースター’は
正に初体験でストライクゾーン。
あのユーミンでさえ、アルバムを3枚出して、やっとブレイクするのは
3年後の‘ルージュの伝言’。
私は、先取り組みの‘奢り’もあって、なんで、ズッチャチャ・ズッチャチャの
あの曲なんだよ、もっと、いい曲があるだろう、と極めて不機嫌だった。
その後の彼女の活躍は、語るまでもない。
74年に作った、‘旅立つ秋’は、パックインを降板する(1回目)林美雄に
捧げた歌で、お別れの会でも、ユーミン自ら歌った。
☆石川セリ
ミドリブタのパックインといえば、先ずは映画‘八月の濡れた砂’。
監督は、タンポポで歯周病役で出演していた、故・藤田敏八だ。
そしてそして、その主題歌を歌っていたのが、石川セリだった。
ハスキーでセクシーな声に魅了されていたが、その後、写真をみて納得。
因みに、井上陽水と彼女は、林美雄の本番中のスタジオで初めて出逢って、
結婚に至る。
☆山崎ハコ
初めて聴いた時、もう地球の裏側まで落ち込みそうな‘暗さ’に圧倒された。
ギターの弦の音も、彼女の声も原始に訴える感じだった。
ブレイクしきれなかったから、ミドリブタで出逢わなかったら、
知らずに終ったかも知れない。
何を隠そう、私が人生で初めて買ったLPは山崎ハコだったのだ。
☆原田芳雄
ヨシオつながりか(笑)
役者としては勿論知っていたが、歌手としての彼を知ったのはパックのお陰だった。
‘りんご追分’‘プカプカ’が有名だが、私のお気に入りは‘愛情砂漠’
☆タモリ
あの伝説の、‘四カ国語麻雀’を初めて聞いた。
いまは、昼の番組で楽隠居のイメージがあるが、当時のタモリの独創性は秀逸。
ミドリブタの‘苦労おーかるローカルニュース’は、タモリのツギハギニュースとかの
芸に、しっかりと継承されたと勝手に思いこんでいるナリポン。
☆おすぎとピーコ
正直、あまり印象にないが、ブレイク前にミドリブタに呼ばれていたらしい。
実は、林美雄の訃報を、朝のワイドショー(とくダネ)で、オズラさんが
オープニングトークで取り上げた。
他局のアナを激賞したオズラさんも偉いが(あの時はズレてなかった)、
ビハインドにいたピーコが本番中にも拘らず、泣いていた姿が印象的だった。
☆藤竜也
‘花一輪’
‘蛍の子と書いて蛍子(けいこ)と読むんですよ’
将来娘ができたら、名前はこれしかないと一瞬思ったが、
幸せが薄そうなのでやめた。
林美雄については、まだまだ書き足りない。
おまけに、その後、ある人のおかげでナリポンの人生始まって以来の、
とんでもない‘至福の時’が訪れるが・・・それはまた、別の話・・・ぶっぶ~ (´・ω・`)
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