ディーラーと言う人種は、仕事は極めてグローバルな割りには、意外に狭い世界で生きている。
部外者が入れないようにセキュリティー・ロックされた部屋に引き篭もり、
相場の動きやニュースをいち早く伝える通信社のスクリーンを睨みながら、電話で取引をする。
海外のディーラーと話すが、実は顔も知らなかったりする。
そうやって毎日が過ぎていく。
ディーラー同士の懇親の場もあるが段々飽きてくる。
そんな私が異業種の人間と知り合える会があった。
発起人はN氏、当時は某生命保険会社の支社長だった。
最初の例会は1995年の11月、生憎私はマドリードへの出張と重なり出席できなかったが、
第2回目からは、身体を壊すまでの約5年間、毎月の会には欠かさず出席した。
メンバーは多様だった。
IT関連、M&Aコンサルティングで自ら起業した人々、一部上場企業の関連会社社長、弁護士、
不動産会社社長、医師、広告会社経営者、台湾&中国コンサルタント等々。
あとWカップで笛を吹いたサッカーの国際審判O氏、歌舞伎役者のI.U.氏もメンバーだった。
メンバーの殆どが、経営者か個人事業主であり、所謂リーマンは私くらいだった。
月々の例会は六本木にある会員制のサロンで行われていたが、毎回12時を回っても
大半のメンバーが居残るほど盛り上がっていた。
直接何かビジネスに結びつけると言うよりは、メンバーの人間的な交流が主だった。
他に、分科会と称して食事会、ゴルフコンペ、チャリティーコンサートの鑑賞等も行われた。
歌舞伎役者がいたのと、N氏が歌舞伎や能楽に造詣が深かったせいで、観劇の会も頻繁に
開かれた。
私自身も妻と一緒に初めて歌舞伎を観に行き、その後の食事会をメンバーと共に愉しんだ。
そこに、熱演を終えたばかりの歌舞伎役者の彼が浴衣姿で現れた時は、妻も感激の様子で、
こういう会に参加できている私をほんの少しだけ見直した風情もあった。
リーマンでありながら、会の中での私は一言で言えば態度が大きく不遜でもあった。
初対面の人間に対しても常に思ったことを何の遠慮もなく言ってしまう、所謂直言癖が
時にトラブルを起こす事もあったに違いない。
それでも、会の主宰者であるN氏特有のきめ細かい手腕で会は順調に運営されていた。
2001年の夏、私が穢土を離れるにあたっては、N氏とメンバー中で一番仲が良かったI氏が
送別会を企画してくれた。
私と縁の深かったメンバーに限定して参加者を募ったが、思いの他の出席率で
急遽会場を変更する破目になった。
2次会には、夜の公演を終えた歌舞伎君が駆けつけてくれたし、
二人の歌姫がMISIAのEverythingを実に感動的に熱唱してくれた。
かつて私の舌の毒にまみれた人達も居た筈なのに、みんな‘最後の優しさ’で送ってくれた。
奇しくもその送別会を機に、会は一旦休会になる。
やはりコアメンバーの私が抜けたのが大きな痛手に・・・(^。^)
というのは全然関係なーーーーーーし!
N氏が独立して日本の古典文化をアーカイブする事業を起こし、
繁忙を極めていたのが理由だった。
しかし、その後暫くして彼は動き始める。
会の名前は変更され、定例の会も3ヶ月に1回になったが場所は同じ。
有難いことに彼はいまだに、この種の案内のメールの送付先に私を含めていてくれる。
実際に参加できる可能性は極めて低いが、穢土の風を感じることができるのが嬉しい。
最新のメンバーの名簿のファイルを見ると、懐かしい名前の他に、知らない名前が盛り沢山。
カテゴリーも様々だが、どれも錚々たるもので魅力的に見える。
人と人を繋ぐ‘出逢いの神様’との異名を持つN氏ならではの世界が構築されている。
この名簿を見ながら、私は何故か妙に心が揺れた。
未知の人間がどれだけの魅力を持つか、文字通り未知だが、健康で穢土に棲み続けていたら、
会に出席できてだろうと考えると‘悔しさ’にも似た感情に襲われた。
病気と引き換えに、田舎でのslow & lazy lifeを得て、
それはそれで十分に居心地の良い筈だったのに・・・。
何故なのだろう、穢土に未練を感じてしまった。
或いは、この4年間で職業欄を無職とすることに抵抗感が無くなっていたのに、
あの名簿に‘無職’じゃ立場が無いよな、なんて久々に自嘲的な考えが頭をかすめた。
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