2005年3月24日木曜日

気狂いピエロ PIERROT LE FOU

昨日の昼のテレ朝の番組中、川村 晃司 (テレビ朝日コメンテーター)が
ゴダールの『きちがいピエロ』を観て泣いた、と発言した。

数分後、司会者は不適切な表現があったことを詫びた。
川村氏は、作品等の固有の場合は許されている、と主張していた。

私個人は、そもそも行き過ぎた言葉狩りには疑問を感じている。
アニメの巨人の星や映画の寅さんシリーズでも音が飛ぶことがあるが、あれはかなり白ける。

まあ、本題は差別用語ではない。
ゴダールの『きちがいピエロ』と言う映画そのものだ。

映研に所属していた映画青年としては、当然作品名は知っていたし、観るべき課題作品のような
存在だとは知っていたが、いまだ観た事はなかった。

ということで、『気狂いピエロ』(へー、これで‘きちがい’と読むんだ)を早速観た。

が、正直私の心は揺れもせず、踊りもせず、笑うことも無く涙も出なかった。

う~む、どうしたものか・・・(-_-;)

フランス語は全く分からないから字幕の日本語に依存するが、詩的であり文学的である風ではあるが、
それ以上に白々しく空疎な印象が強い。
この作品はヌーヴェル・ヴァーグの代表的な作品であり、映画史における価値は様々な人が口を
そろえて絶賛している。

でもナリポンには無理。

やや遅れてやってくる、アメリカン・ニューシネマは理解できる。
『俺たちに明日はない』『卒業』『イージーライダー』『真夜中のカウボーイ』『明日に向って撃て!』等、
すべて当時の上映時に観たが、一定の感動は得られた。

もし、あの柔軟な10代にこの作品を観ていたらどうだっただろうか。
素直に感動したかも知れないし、映画青年を‘偽装’するために感動を自己に強要していたかもしれない。

でも、今は違う。
感動できなかったことに素直になれる自分が居る。

プロフィールにもあるように、私はスキーが大好きだった。
どのスキー場にもひとつは存在する、圧雪のしてないコブコブの急斜面を滑り降りることが
夢だった。
しかし、生半可な練習では到底不可能な夢で実現できなかった。

で、ある時から、その夢を棄て、そういった斜面へのチャレンジを諦め、
自分が心地よく滑降できるゲレンデのみ滑る事にした。
それにより、更にスキーが楽しくなった。

映画観賞も同じだ。
自分の力量に応じた素直な観賞をしている。

ところで、「私は映画キチガイです。」というのも、きっと差別用語なんだよね(笑)
なんか『勝手にしやがれ』って言う感じ・・・(^。^)

0 件のコメント: