厚生労働省が表彰する『現代の名工』で、料理人の道場六三郎氏が選出された。
料理人は職人ではあっても、名工という表現にはチョッと違和感を覚えるが・・・。
実はナリポンは彼と一度会ったことがある。
シンガポール在住時代、贔屓にしていた寿司屋の主人が現地の弟子を修行させるために
「銀座ろくさん亭」に送り込んできたのだ。
その弟子は中国人だったが、ボートで本国を脱出、途中から泳いで香港に
辿り着いたという根性の持ち主だ。
実際シンガポールの店でも、努力家で他の日本人の若造より余程気の利いた動きをしていた。
その彼が日本に来て、私に連絡してきたのだ。
早速店を訪ねたが、その時、道場氏にも会い、恰も親代わりのような気分で挨拶をした。
修行を終える前に、もう一度訪ねたが、彼に会う目的以外ではあの店を訪ねた事は無い。
店内の空間も料理そのものも、再訪したいと思わせるものではなかった。
それから数年して、テレビの‘料理の鉄人’に道場氏が活躍するようになると豹変する。
‘あっ、俺会った事あるし、あの店にも行った事ある、実はシンガポールから・・・’
としきりに吹聴していた。
まあ、人間なんてそんなものだし、私もその程度だった。
実際、道場氏は材料を目の前にしての即興的な料理の才能があったのかもしれない。
鉄人で裏付けられた事で、あの店を修行先として選んだ寿司屋の主人に改めて感心した。
鉄人ブームの中、赤坂に「ブラッセリー六三郎」をオープンさせた。
会社から10分程度の徒歩圏内だったが、予約が取り辛く、そこまで苦労して行きたいとも思わず、
前を通ると女性だらけだったのにも気後れし結局食べずじまい。
(その後店名は「ポワソン六三郎」に変更)
予約が取り辛いのに必死になって行った店は、野崎洋光氏の「分とく山」(わけとくやま)だ。
一応本家にあたる「とく山」時代は冬場のフグ目当てに4回行ったことがある。
4回のうち、2回山城新伍が美女と一緒にいたのは見かけたが、
野崎氏はまだ顔が売れてなかったせいもあって存在は特に覚えていない。
「分とく山」に行ったのは、移転前のキャパの少ない方だから、本当に予約が取りにくかった。
料理の印象は、懐石料理らしい控えめな味付け、出汁の加減は絶妙、
ご飯類が美味いって感じだった。
食べ終えて、店を出ると、野崎氏の‘お見送りの儀式’がある。(今もやってのかな?)
‘あれで、結構参っちゃう’
野崎氏は長嶋茂雄とも親交があり、長嶋氏の強い要請でアテネでは
長嶋のいないナガシマ・ジャパンの食事の担当もした。
道場氏がギョロギョロのギラギライメージなのに比べ、野崎氏はぼよよ~んとしているが
中々の商売人である。
永田基男氏は京都の割烹料理店「千花」の大主人である。
私が訪ねた時は、彼がまだ現役で料理を作っていたし、建物も古いものだった。
それっきり一度だけだが、その印象は衝撃的だった。
旅先での多少の興奮があったのか。
祇園のあの小路を入っていく風情が良かったのか。
盃のような入れ物にいれた酒肴にふさわしい料理の数々。
じゃがいもの酢の物とか、それまで味わった事のない工夫。
確か20数品の料理が出てきたが、ハーフタイムに出てきた‘いなり寿司’の絶妙のタイミング。
デザートはフルーツのジュース、そこで白衣姿の主人が登場する。
‘なんか、こっちの胃袋の状態をすべて知り尽くされているような感じだった’
見送られて、ふたたび小路を歩いて大通りに出る。
何か別世界の味わいだった。
現在の「千花」は長男が引き継ぎ、次男は「千ひろ」という店を経営しているとのこと。
しかし、これだけの乏しい経験なのに、おまけに素人の私が勝手に‘不等号の向き’を決めて、
なおかつそれを堂々と情報として発信している。
なんとも物騒といえば物騒な話だが、杉村太蔵の一挙手一投足を伝えようと腐心し、
まるでそれが重要だと確信しているらしい大マスコミの情報よりはマシだと自負している。
2005年11月13日日曜日
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