2005年11月14日月曜日

本名は小野二郎、店名は‘すきや橋次郎’~そんなジローに魅せられて~

昨日の記事で、道場六三郎が『現代の名工』に選ばれたことを書いたが、
なんのことはない、同時に小野二郎氏も受賞していた。

日本料理人 おの じろう
小野 二郎
(八十歳) (有)すきや橋次郎  江戸時代以来のにぎり鮨の伝統を踏まえながらも、常に新しい工夫を怠らず、さらに美味しい鮨を目指し、江戸前のにぎり鮨の型と魂を継承している。氏の店は一九九四年一〇月「ヘラルド・トリビューン・インターナショナル」誌の世界のレストランベスト六位に選ばれるなど、内外より高い評価を得ている。


寿司屋の方が、職人と呼ばれる分‘名工’という表現との違和感は少ない。

実は、この‘すきや橋次郎’はナリポンにとって思い出深い店だ。
とは言っても、行ったのはたったの一度だけだが・・・。

我々家族が、穢土を離れ当地に移住したのは2001年8月だが、
たった一度の‘次郎’を味わったのは7月の下旬だった。

穢土を離れる前に、是非行っておきたい店、
と言っても私も病人だから出かける機会は限られていた。

そこで厳選した数店の中のひとつが‘すきや橋次郎’だった。

私が食べ物に興味を持つようになったひとつのきっかけは、
山本益博の‘東京味のグランプリ’だ。

当時のグルメ本は当たり障りのない表現が多く、マスヒロのゲリラ的で先鋭的な
評論には胸を躍らせたものだ。
その後は、彼自身がメジャーになりすぎて、当初の面白みは無くなってしまったが・・・。

一時期は、彼の書いたポケット・グルメ本を常にセカンドバッグに入れていて、
夜な夜な行動するバイブルとしたものである。

そんなマスヒロ信奉者だったから、彼が信奉する‘次郎’は
当然真っ先に訪れていて不思議がないのだが、何故か未体験だった。

ディーラー仲間で、年下だが、私のグルメの指南役だったK君と話していて、
彼と最後のメシは‘次郎’にしようということになった。

K君は、まあ常連の部類で、確実に‘小野二郎’に握って貰うためにお店と交渉してくれた。

昼の営業の開始直後なら大丈夫と言われ、平日の昼、妻を伴って出かけた。

大手町界隈の古いビルと同じような、かなりシャビーなビルの地下1階に店はあった。

カウンターに3人で座り、名人・小野二郎がつけ場に登場。
おまかせで出てきたのは

ひらめ
あじ
赤貝
とり貝
しまあじ
あおりいか
かつお
車えび
まぐろ(赤身)
まぐろ(中トロ)
まぐろ(大トロ)
こはだ
蒸しアワビ
ミル貝
穴子
ウニ
イクラ
卵焼
コバシラ


追加で、我々は中トロ、K君はかんぴょう巻きを注文(お裾分けしてもらった)、飲み物はビール2本。

一番感激したのは、大きな車えびで、えびの真髄は加熱物にありと思わせた。
次は追加で注文したまぐろ(中トロ)だった。

じっくり味わいたいと思うこっちの気持ちとは裏腹に、主人の握るペースはやや速すぎた。

何回か話を振ってみたが、最低限の返答しかしてもらえず、ノリの悪さに私の方が途中で諦めた。

‘まあ、初陣の私じゃ無理かな’

K君の話だと、常連客にはそれなりに愛想は良いらしい。
ミスター円とかは常連らしい。

それでも、寿司そのものは素直に美味いと思ったし、穢土で味わう最後の寿司屋が‘次郎’で、
しかも小野二郎に握ってもらったことには感慨深いものがあった。

常連に言わせれば、オヤジが握ったのと息子が握ったのでは全然違うと言う。

会計はちょうど6万、ひとり2万だった。
息子が同じネタを握っても同じ値段なのだろうか。

当地で一番お気に入りの寿司屋でも、つまみなし、酒なしの握りだけで、
調子に乗ると12~15千円はするから、次郎の2万は決して高くはない。

食べ終えた後、私の東京での、或いはもっと大袈裟に言えば‘人生でのメイン・バー’だった、
オールド・インペリアル・バーまで歩いた。

いつも通りに、タンカレー・マティーニ・ロックを頼んだ。
何回通ったか概数でもよくわからないが、妻を連れて行ったのは初めてだったかもしれない。

今は六本木ヒルズにも出店し、次男が主人を務めているらしい。
いかがわしい‘蛭ズ族’の連中が‘ウニの軍艦1ダース’とか頼んでいたりして・・・(笑)

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