2005年5月4日水曜日

寺山修司没後22年~魔術師の言葉は‘死語’にならない

今日5月4日は、寺山修司の命日だ。亡くなったのは1983年の今日。
また今年は、寺山生誕70周年にあたり、様々な追悼の企画があるらしい。

彼の才能をいかすジャンルは多伎にわたった。
俳人・歌人・詩人・小説家・作詞家・演劇家・脚本家・映画監督・競馬評論家・・・
本人は自分で「職業:寺山修司」と言っていた。
なんともわかりやすいし、この一言で広大な寺山ワールドが想像できる。

詩人を夢み、映研に所属していた私には正に‘必修科目’のような存在だった。
演劇はジャンルとして興味が無かったのでパスしたが、他はひと通り代表的な
作品には手を出した。

映画は、私の‘観解力’の無さか感受性の欠乏のせいか、余り好きではなかった。
短歌や俳句は好きだった。

でも、一番気に入って、実際に読み漁ったのは競馬エッセイだった。
まあ、要するに最も簡単に理解しやすかったものということだ。

実在する競走馬と架空の人物が絡んで、レースという現実を
ひとつの人生劇場に仕立て上げるのだ。

スシ屋の政、トルコの桃ちゃん、バーテンの万田らのレギュラーキャラの他に、
都度、何かの特徴を持つキャラを登場させ、それを実際のレースに出走するある馬のキャラと
オーバーラップさせるのだ。

聾唖者の彼女がいる男が、声の出ない馬の馬券を買い続けるとか、
デブな男が馬体重610キロの馬の馬券を買うとか・・・

ハルウララとういう連戦連敗の馬が去年ブームになったが、
寺山は様々なタイプの‘ハルウララ’を創造していたのだ。

寺山の口癖だった。

‘ファンは馬券の名を借りて自分を買うのである’

寺山は吉永正人という騎手が好きだった。
いつも一頭だけ他の馬群からポツンと離れていた。
かたや大逃げ、かたや4コーナー最後方からの直線一気。
その極端な騎乗方法が失敗し、「へたくそ」と罵声を浴びることも多かったが、
吉永はこのやり方を頑なに続けた。

寺山もその‘孤独な戦法’に固執する吉永を愛していた。

その吉永が騎乗するミスターシービーが皐月賞を制するのが、1983年4月18日だ。
なんとその日、寺山は中山競馬場に姿を現している。
翌19日から体調が悪化し、その後意識不明のまま5月4日に逝ったのだ。

皐月賞での雄姿を目にすることはできたが、同馬がその後5月にはダービーを勝ち、
11月には菊花賞も制し、シンザン以来19年振りの三冠馬に輝くのは知らない。

「きっと天国から見ていたに違い」等という陳腐な気休めを言えば、寺山の怒りを買いそうだ。

寺山なら口を少し尖らせてこんな感じかもね(笑)

「ボクは皐月賞であの馬の勝ちっぷり、吉永の乗り方を自分の目で確かめた時に
三冠になるのはわかったんだ。それがわかったから、もうボクの蝕まれた肉体は無理はしない。男っていうのは、簡単にさよならを言えるんだ」

こっちの言葉は本当に寺山の言葉で記念館の碑に彫られているそうだ。

―百年たったら帰っておいで、百年たてばその意味わかる―

こんなこと言われても、ナリポンの余命は・・・(-_-;)

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