2005年12月13日火曜日

本屋の棚から消えていった作家、石川達三を懐かしむ~‘幸福の限界’か‘蹉跌’か‘失敗’か~

もう、石川達三という作家がいたことを知らない世代も多いかも知れない。
第1回芥川賞の受賞者で、歴史的には一世を風靡した時代もあったのに、
そこからの凋落度は激しい。

数年前に何かで目にしたが、文庫本での取り扱いの変遷の中で、
消えていった作家のランキングのかなり上位に位置していたような記憶がある。

確かに、私が、高校、大学生の頃は本屋の文庫コーナーでも、
石川達三は堂々とベスト・ポジションを確保していた。

私は読書家とは程遠い人間だったし、その後はさらに本を読まなくなった。
そんな私が、読破したと言っても大袈裟ではないのが(←コウイウトキハ、ホトンドオオゲサ)
松本清張と石川達三だ。

19歳の頃、日記と呼ぶには余りにも頻度が低いノートに書いた文がある。

友人の中にも、石川達三なんて文学的レベルからみれば、かなり下級の作家だ、
と言うのが何人か居る。
僕には、醜悪にまで巧妙な氏の人間表現、平凡な読者が巡り合う数多くの
自己投影的主人公は捨て難い。

彼は極めて常識派という評価を受けているが、実際のところ、
彼のレベルを超越する生活を営んでいる人間がどれほど居るだろうか。
ひょっとしたら、友人の中で達三批判をする奴は、いわゆる夢多き人間で、
バラ色の人生を歩まんとしているのに、達三さんがあらゆる方法で
その種の人間の挫折を描いているもんだから、
不快になってそういう発言になるのではないか等と勘ぐりたくもなる。

僕はどうかと言えば、氏の影響は大と言わなけらばならない。
結婚にあまり憧れなくなったのも、ずっと独身で居るのも悪くないと
思うようになったのも、結婚するにしても早婚は良くないと思うようになったのも
氏の影響だろう。

自己防衛が強くなったのも、恐らく彼の作品の所為だ。
常時、身辺を無傷の状態にしていたいのだ。
かすり傷でも許すと、何時か致命傷になるのではと考えてしまうのだ。
だから、日々、俺は面白くも無い男になってゆくのかも知れない。


なんか30年経っても、書いている文書の程度が進歩してないのが一目瞭然だが・・・(-_-;)

結果的に、結婚は早いほうだったが(笑)、石川達三の影響はあった事はあったかも・・・。

‘常識を愛し、平凡を排する’がナリポンの価値観だからだ。

実際調べてみると、いま買える本は恐ろしく少ないのは事実だ。

古典にも成り切れず、今の時代、普通に読むには古めかしく、人気が無いのだろうか。

映画の原作としても、数多くの作品が使われている。

私も映画はさすがに70年代の‘青春の蹉跌’‘金環蝕’しか観たことはない。

私と違い、いまだに図書館通いで‘濫読家’の妻に、石川達三で読んだ作品を尋ねたら、
即答はできなかった。

作品名を言ったら‘それは読んだかも・・・’と言われたが、
やはりその程度なのかと実感した。

だからと言って、好きだった作家がこんな境遇になったから、
腹が‘たつぞう’なんてことはない(笑)

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